第七百二十八夜 高浜虚子の「大根」の句

 今宵は、「大根」の作品をみてみよう。

■1句目

  流れゆく大根の葉の早さかな  高浜虚子 『五百句』昭和3年11月10日
 (ながれゆく だいこんのはの はやさかな) たかはま・きょし

 平成7年だったと思うが、「花鳥来」で虚子の『五百句』勉強会が始まり、少し遅れて、私も参加した。
 この虚子『五百句』の輪講は、毎回1人が1句を担当して、約8年間かけて158回行われた。その後、「虚子『五百句』入門」として蝸牛新社から出版させていただいた。
 深見けん二先生の序を1部紹介してみよう。
 
 本著は、「花鳥来」の有志が集まって、輪講形式で自分の担当の句について話し、他の人の意見も聞いた上でまとめたものである。その席に私は必ず出席し、意見を述べた。また、担当の人が最後にまとめてきた原稿に目を通した上で「花鳥来」誌上に発表した。その際私は、担当者の鑑賞が自分の意見となっているものは、私の考えと異なっていても、そのままとした。もともと句の鑑賞は、いくつかあってよいはずであり、自らが直接、虚子の句に実際に当たってこそ新しい発見がある。それによって虚子俳句への理解が深まることが、私にとって何よりもうれしいことであった。
 鑑賞形式の不一致や不十分な点はあるが、それぞれの筆者が、だんだん虚子の俳句の大きさに気づき、真剣になって行った過程が覗える。(以下略)
 
 20年近く前に書いてくださった文面からは、改めて、けん二先生が、大きな心で、1人1人が自らの力で、虚子俳句を学びとることを願っていたことが伝わってきた。
 
 掲句について、虚子は改造文庫『句集虚子』自序がある。
 「――この句は晩秋初冬の頃、多摩川邊をへめぐつて、稍々末枯かゝつた紅葉を眺め、風に吹きたおされてゐる穂芒の道を通り、或は柿の残つてゐる農家の間を抜けなどしてそゞろに景趣を味はひながら、フトある小川に出で、橋上に佇むでその水を見ると、大根の葉が非常な早さで流れてゐる。之を見た瞬間に今までにたまりたまつて来た感興がはじめて焦点を得て句になつたのである。その瞬間の心を云へば、他に何物もなく、ただ水に流れて行く大根の葉の早さといふことのみがあつたのである。流れゆくと一息に叙した所も、一にその早さのみ興味が集中されたからのことである。」
 
 句意は次のように考えた。虚子の眺めている川のずっと上流では、農婦が、畑から抜いた大根の泥を洗い流しているのであろう。洗う過程で、余分な葉っぱは剥ぎ取って川に流したのであろう。虚子が下流で眺めたのは、勢いよく流れてきている葉っぱであった。この事実だけを虚子は俳句にし、それ以外の事には何も触れていなかった。
 
 『虚子秀句鑑賞』で、大野林火は次のように書いている。「――ああ、これが長い俳句的思索と経験を積んで、到り得た境地であろうか。自然の断片を正確に、印象深く、みごとに描けているが、なんという単純さなのであろう。そしてまあ、なんと平凡至極なことであろう。しかも、この句を平凡、単純として、一瞥のもとに捨て去ろううとすると、いったん眼底に灼きついたこの句はますますその濃度を増してくるにちがいない。しかも読者を虚子とおなじ環境にみちびき、ついにはまったく虜にして了うにちがいない。そして俳句というものの性格の一面を如実に教えてくれるにちがいない。」
 
 大野林火は確か、『高浜虚子』を書くに当たって、大手町の「ホトトギス」の事務所に通い詰めて、これまでの俳誌「ホトトギス」を読破したという。
 
 最初、この句に触れた私は、流れの早い川と、凄いスピードで、大根の葉っぱが流れてくる情景を眼前に見るごとくに想像することはできた。しかし俳句は見たまま詠んだだけでよいのだろうかと考えていた私は、この作品の良さがさっぱり理解できなかった。
 
 けん二先生の元で、自然に触れ、花鳥諷詠のことを考えてゆくうちに、いつしか年齢も重ね、私は次第次第に虚子の俳句に惹かれるようになった。
 明治36年、碧梧桐の「木の実植う」「温泉百句」論争を批判した虚子の「現今の俳句界」の最後の附言に、興味深い俳句観がかいてある。それが、「単純なる事棒の如き句、重々しき事石の如き句、無味なる事水の如き句、ボーっとした句、ヌ―っとした句、ふぬけた句、まぬけた句等」と。この時、虚子30歳であった。
 
 〈流れゆく大根の葉の早さかな〉は、昭和3年、虚子が「花鳥諷詠」を初めて講演し、「俳句は花鳥諷詠詩であり客観写生は方法論である」と唱導した年で。この時、虚子は54歳であった。