第七百七十五夜 百合山羽公の「冬雲」の句

 今日は1月12日。つくば山を右手に眺めながら車で北上した。よく晴れた空は目に沁みるように青かった。これが冬青空なのだと、一時期「花鳥来」にも在籍していた「夏草」の上野好子さんの「冬青空さえぎるもののなき別れ」の作品を思い出していた。
 
 運転しながら前方の空を180度はゆうゆうと眺めることができる。暫くゆくと時折、楕円形の美しい雲が浮かんでいるのに出合う。目的地に到着するまでに、いくつ浮雲を見かけたであろうか。
 晴天の今日、大空をゆく冬の雲というのは、ことに美しかった。真っ白いだけでなく、下の部分が黒ずんだ影のようにも見える雲であった。そのような冬雲が、雑木林の向こう側を過ぎてゆく様子を見ることもできた。
 
 今宵は、「冬の雲」の作品を見てみよう。

■1句目

  冬雲を山羊に背負はせ誰も来ず  百合山羽公 『新歳時記』平井照敏編
 (ふゆぐもを やぎにせおわせ だれもこず) ゆりやま・うこう

 この作品の景はつぎのようであろうか。山羊の群れが山から降りてくる。見ると、山羊は冬雲を背負って山を降りてきている。いや、実際はそんな風に見えているということで、山の上には冬雲が湧いていて、山羊の向うの空の雲なのだが、下から山羊を見上げていると、山羊は冬雲を背負わされているようにも見えるのだった。
 
 山羊が坂道を下ってくるところを眺めていると、坂の上にある雲は、あたかも山羊が空の冬雲を背負わされて降りてきているように見えたのだろう。側には誰もいないので、誰かが山羊に背負わせたわけではない。
 これは、ちょっとした目の錯覚である。

■2句目

  冬かげは流るる雲のけはひにも  富安風生 『現代俳句歳時記』角川春樹編
 (ふゆかげは ながるるくもの けはいにも) とみやす・ふうせい

 光があって遮るものがあると影は生まれる。つまり、光線の進路に不透明な障害物があると、その背後に光線のこない部分ができる。これを影という。
 
 富安風生は、「冬かげ」が、たとえば夏の季節の影と違って、「冬影は長い」ということに気づいた。このことは、地球の回転と太陽の位置と関わっているのであるから、冬の日は、南側のガラス戸や障子を開けると、差し込む日差しが座敷の奥まで届くことからもわかる。
 
 さらに風生は、雲ひとつ流れていない空とは違って、雲が流れている気配でさえ、大空の下には、「冬かげ」が生まれることに気づいたのだ。