第九百夜 松尾芭蕉の「夏草」の句

 今宵は、「千夜千句」の第九百夜である。「千夜千句」というタイトルは、じつは松岡正剛さんがご自身のブログ『千夜千冊』の中で、あらきみほ編著『子ども俳句歳時記』を取り上げてくださったことがきっかけである。タイトル「千夜千句」は『千夜千冊』を真似したものである。『子ども俳句歳時記』を褒めてくださりブログに書いてくださって、嬉しくなって、タイトルも追随してしまった。
 松岡正剛さんの『千夜千冊』はつい最近第1800夜を迎え、千夜を遥かに越えてしまっている。
 
 2019年12月の半ばにブログ「千夜千句」をスタートした時、私は、喜寿を迎える3年後の2022年11月10日までには、千夜まで到達できたらという目標を定めていた。2019年に転倒して骨折した直後、その頃にコロナ禍がはじまり、何かしていないとイライラする性分もあって、始めたのが「千夜千句」であるが、なんとかクリアできそうな日程となってきた。
 
 その間に1回、第七百二夜から5日間の休みを入れた。今回も第九百夜を終え、明日から数日を休み、千夜まで残りの日々を楽しみながら綴っていきたいと思っている。

 今宵は、「夏草」の作品を見てゆこう。

  夏草や兵どもが夢の跡  松尾芭蕉 『おくのほそ道』
 (なつくさや つわものどもが ゆめのあと) まつお・ばしょう
 
 芭蕉がこの句を詠んだのは奥州の高館(たかだち)。衣川高館ともよばれ、源義経と義勇の臣が藤原泰衡に襲われて無惨に果てた場所である。義経が兄頼朝を逃れて奥州に下ったのは泰衡の父秀衡を頼ってのことであった。秀衡は義経を庇い死後の庇護を、子の泰衡に言い残したが、泰衡は頼朝を恐れ、父秀衡の遺志に背いて義経を討った。だが泰衡は頼朝勢に討たれ、ついに清衡、基衡、秀衡の三代の栄耀と「おくのほそ道」の中に記された奥州藤原氏の滅亡である。
 
 掲句は、かつて悲運の武将たちが義臣たちとともに戦い果てた土地には、今は、何事もなかったかのように夏草だけが生い茂っているのですよ、という句意になろうか。

  夏草やベースボールの人遠し  正岡子規 『俳句稿』夏
 (なつくさや ベースボールの ひととおし) まさおか・しき
 
 明治28年に戦役従軍記者として赴いた中国からの帰途、海中にサメをみた正岡子規は、船中で2度目の大喀血をした。その後は脊椎カリエスを病み、闇汁句会などの会合に出かけることもあったが、ほぼ寝たきりとなっていた。
 
 掲句は明治31年の作である。当時の上野は現在とは全く違っていたであろうから、たとえば上野の森で野球をしている声も、上野の森を下った根岸の家に横たわっていても聞こえていたかもしれない。また、気分のよい時などは、外歩きをし、ベースボールの光景に出合えば眺めていることもあったであろう。
 
 明治19年、子規は東京大学予備門時代に覚えたベースボールに夢中になり、夏休みに松山へ帰郷の折には、バット1本とボール1個を持参しては碧梧桐に教え、松山の地にベースボールが広まるきっかけを作ったという。
 
 幼い頃の子規は、母親の傍を離れず「この子は”泣き味噌でへぼ”で」などと母から言われるほどの、弱虫の子であった。さらに子規の後半生は寝たきりの8年間であったことを思うと、大学予備門時代に、ベースボールに夢中であった元気な時代があったことを知って、不思議なことに何故かしら嬉しくなってくる。