第九百五十九夜 赤星水竹居の「水引」の句

 夫の父の後妻となった母は、長崎県島原市役所に女学校卒業後に勤めていた。亡くなって久しくなったが、確か、大きな商家の娘であったと覚えている。
 朝の仏壇の勤行や、親戚付き合いのこまごましたことなど、じつにきっちりしていた。母の晩年近くのお盆に帰省したときのこと。台所の壁に様々なメモが大きく張られていた。その一つが「ボケないこと!」であった。                   
 
 夫の死後であり、後妻という立場であった母。夫の兄弟妹は7人。孫たちも多い。その一人一人の誕生日には必ずのように、お米や島原産の魚の干物や乾物のワカメなどと一緒に、水引をかけた金一封が添えられて、贈られてきた。
 
 母にとって「ボケないこと!」は「忘れないこと」であり、重要なことであったに違いない。同じような年頃になった今、頑張り通した母の有難さをつくづく思い返している。

 今宵は、「水引の花」「水引草」の作品を見てみよう。


  水引をしごいて通る野道かな  赤星水竹居  『水竹居句集』
 (みずひきを しごいてとおる のみちかな) あかぼし・すいちくきょ

 「しごく」とは、手に握った長いものを、引き抜くようにして手前に強く引く、とある。野道で水引草を見つけた赤星水竹居さんはついつい、長い掴みやすい水引草を、引っ張ってみたくなるのだろう。   

 赤星水竹居は、後の三菱地所社長で、虚子と出合ったのは、大正12年、東京駅前の三菱地所の丸ノ内ビルの一室に虚子が「ホトトギス」発行所を構えた時であった。赤星水竹居には、虚子との会話の片々を綴った『虚子俳話録』がある。
 その中から3つを紹介してみよう。
 
 1・「私が先生に『東京だより』の記事に万一先生のことを誤り伝えはせぬかと、それが一番心配ですというと、
 先生曰く、
  私は人から誤解されるのを、人にはあんな風に見えるか、あんなふうにもとられるかと一種の興味をもって見ています。つまり誤解は誤解として一種の興味をもって迎えています。
 と微笑された。(昭和9・8・21)
 
 2・立子さんが、
  お父さんは、それで、若い時分にはずいぶん人と議論をなさったこともありますかね。
 と言うと、
 先生曰く。
  ずいぶん仲間同士で議論もしたよ、お父さんは生来人に屈服することが嫌いでね・・。

 3・某問う。
  道灌山での子規と先生との話は、あれはいったいどんな事でしたか・・。
 先生曰く。
  つまりおれの後継者になってくれろと言ったのを、私が断ったのです。・・子規は豪かっただけに口やかましく指図をする人でしてね・・、私はまた生来人の指図を受けることが大嫌いでしてね・・。

 こうして『虚子俳話録』を読んでゆくと、赤星水竹居が高浜虚子を一本の水引草と捉えて、虚子のあれこれを引っ張り出しているようにも思えてきた。