第九十夜 金子兜太の「朧」の句

  長生きの朧のなかの眼玉かな  『両神』平成七年刊

 鑑賞をしてみよう。
 
 この作品は、金子兜太が七十歳を越えたころの自画像のようにも思う。元気とはいえ当時の喜寿は長生きの方である。私は、仕事で何度かお会いしたことのある兜太先生の大らかな表情と話しぶりから、包み込むようなやさしさを感じていた。
 「長生きの朧のなか」とは、つねに前向きに仕事をしながら長生きしている人物にそこはかとなく感じる奥深さであろう。そして「眼玉かな」とは、確固とした信念で一つの道を貫いてきた俳人の眼玉であり、見極める力をもつ眼玉であろうか。鋭く慈しみ深くあたたかい人間なのである。

 金子兜太(かねこ・とうた)は、大正八年(1919)―平成三十年(2018)埼玉県小川町生まれ。生涯、開業医の父の住む皆野町で過ごした。学生時代は、竹下しづの女の全国学生俳句誌「成層圏」に参加。昭和十六年「寒雷」に投句、加藤楸邨に師事。戦後は沢木欣一の「風」に参加。常に新しい俳句への視点を提示しつづける前衛俳句の代表俳人。
 「作る自分」を明確に自覚した作句法「俳句造型論」による代表作には〈銀行員ら朝より蛍光す烏賊のごとく〉がある。また、〈暗闇の下山くちびるをぶあつくし〉〈人体冷えて東北白い花盛り〉など、肉体的実感を捉えた作品は生涯を通じてのテーマの一つである。平成二十八年「海程」終刊。
 
 片や伝統俳句である「ホトトギス」主宰の稲畑汀子と、片や前衛俳句の先鋒である金子兜太の二人がともに朝日俳壇選者であったとき、不仲ではないかと問われると、兜太は必ず、「伝統俳句と前衛俳句がともに活発であることが俳句の興隆につながる」という風に答えたという。俳句大会では真ん中に並ぶお二人であるが、互いに尊重し合っている様子は現代の俳句界の未来を思わせてくれる。
 
 二月二十日は金子兜太の命日。九月生まれなので百歳を前に白寿で亡くなられた。その代わりに没後の九月二十三日の誕生日の奥付で、第十五句集『百年』として「海原」俳句会・『百年』刊行委員会によって出版された。
 
 『百年』集中の最晩年の作品をみてみよう。

  炎天の墓碑まざまざとあり生きてきし 
  風評汚染の緑茶なら老年から喫す 
  死と言わず他界と言いて春霞 

 一句目、戦地トラック島での墓参の思い出。亡き友の墓前に、自分はこうして生きていると告げている。二句目、金子兜太らしい男気のある句。三句目、百歳に向かわんとしている生死も焦眉の問題となるころの作。死んで無となり塵となるのではなく、死後の世界は―天か山か地底なのかわからないが「他界」だという。季語「春霞」を置いて安らかな心持ちを表した。