第三十二夜 桃井第五小学校の1年から3年まで

 第三十夜では卒業した八成小学校での4年生から卒業のことを書き、第三十一夜で西戸山第二中学校のことを書いた。だが4年生の春まで通っていた桃井第五小学校の1年から3年までのことは幼かったこともあって思い出すことは少なかったので書かずにいたが、やはり思い出せるかぎりは俳句に詠んで書き留めておきたい。
 
■小学校の1年から3年まで

 一番の思い出は、体操の時間の鉄棒のことである。1は鉄棒に両手を使ってお腹まで飛び乗ること、2は飛び乗った鉄棒からぐるっと回って降りること、3は逆上がりをすること。1と2はできたが、3の逆上がりはどうしてもできない。
 
 1・逆上がりできずに蝶と校庭に  
 (さかあがり できずにちょうと こうていに)

 確か1年生の春であった。鉄棒の前で身じろぎもせずに突っ立っていたのは重石ミホの私だけであった。逆上がりができなかったのだ。担任の若い男の先生は、私がなぜ出来ないのか不思議だったのだろう。
 ひどく長い時間に思えた。だがクラスの他の子たちはどこにもいなかった。皆が下校した後も私だけが残されて先生と鉄棒の前にいたのだろうか。私もムキになっていたが先生もムキになっていた。

 小学校の下校時刻は午後3時頃、下校を知らせる鐘が鳴りだした。教室でお喋りしていた子も校庭でドッジボールをしていた子も雲梯(ウンテイ)やブランコで遊んでいた子も、一斉に下校をはじめる。
 下校の鐘の音は鉄棒の前にいた私も先生も、鉄棒を中断して下校をしなければならない合図であった。

 2・陽炎や学校帰りに目眩して
 (かげろうや がっこうがえりに めまいして)

 昭和20年生まれの私は、終戦直後まで大分県の当時の竹田市の母の実家に住んでいた。一家を支えるには父だけでなく母の力も必要だったのか、東京で経理の仕事をしていた母は重宝がられ、再び戦後の東京に戻ってきた母は祖母が元気でいたこともあって、私が小学校4年の頃まで会社勤めをしていた。小学校の参観日には、若いお母さんが教室の後ろにずらり立っているが私の場合は祖母であった。大好きな祖母だけど寂しい気持ちもあった。幼い頃の私は虚弱体質であったが、昼間の仕事で疲れ切っている母でなく、夜に添寝してくれるのは祖母であった。

 ある日、学校帰りに目眩を起こしてしまい草っ原に暫く横たわっていたことがあった。学校の行き帰りはお隣のアッコちゃん(奥村曉子)、近所のユッコちゃん(柴田由紀子)と私(重石ミホ)の3人がいつも連れ立っていたが、救急車を呼ぶ時代ではなく発想もなく、2人の友もじっとして私の目眩が収まるのを待ってくれて、3人で歩いて帰ってきた。

 3・糸遊のなかに倒れて草の香に
 (いとゆうの なかにたおれて くさのかに)

 2句目と同じ日のことである。当時の道路は駅前の大通りはアスファルトであったように記憶しているが、家の周りの道はジャリが撒かれていた。転ぶと小石が膝に当たってよく出血していた。薬は赤チンだ。