八成小学校を卒業した友のほとんどは杉並区立中瀬中学校へ進学した。私は、母の知り合いに薦められた都立戸山高校へ進学するために杉並区から新宿区へ越境入学した。新宿区立西戸山第二中学校である。この中学校へは西武新宿線の高田馬場駅から徒歩15分でゆけた。
当時は、越境入学する生徒がかなり多かった。越境入学組で仲良しだったのは埼玉県狭山市に住む安齋病院の安齋良子さん。その後、安齋さんは慶應義塾大学高等部から大学へ進学した。私は、私立青山学院高等部を受験した。
青山学院高等部受験に合格した私は、青山学院大学へ進学する学生が大部分だったためか、不思議なほどのんびりした環境の中で、私はもはや外部の大学を受験するための受験勉強などできなかった。青山学院高等部でも受験のための模擬試験は定期的に行われていたが、中学時代の頃のような受験への迫力も熱意もなかった。
小学校入学前に移り住んだ杉並区の家は、プロテスタントの井草教会の正門の目の前であった。日曜日には讃美歌が聞こえてくる。クリスマスになると「是非参加してくださいね。楽しいですよ」と、誘われた。
井草教会では全員の礼拝の後に、小グループに別れて聖書を読んでお話を聞かせてくれた。懐かしく思い出すのは、井草教会の長男の小塩節先生と女子大生だった波多江先生。大きくなるにつれてグループでは順番にお話をする立場となった。話すとが苦手だった私は井草教会に出席しなくなった。
青山学院は井草教会と同じでプロテスタントであった。小塩節先生の妹さんが、青山学院高等部卒であったことを知ったが、大学は東大へ進学されていた。
青山学院高等部では、西戸山第二中学校でご一緒した橋本祥子さんと出合った。その後大学時代から現在に至るまで変わることなく親友でいてくれている同じ英米文学科卒の上田祥子さんである。
最近でしたが、上田さんのメールにこう書かれていた。
「・・それこそ半世紀以上、いつも一番わかっていただけるお友達でした。とても幸せなことだったと思っています。ずいぶん長い年月がながれているのに少しもそんな感じがしないのは不思議ですね。これからも出来るだけ長く頑張りましょうね。」
上田祥子さんを詠んでみた。
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1・もう春よ目眩はきつと春のせい
(もうはるよ めまいはきっと はるのせい)
メールで互いにお喋りをしている中で、「血圧の高さ、脈拍数の多さ、そして目眩」などの病状を知って、掲句が生まれた。
詠んだ中でも、うまく仕上がった一句のようで私もうれしくなり、色紙に書いて、額に入れてお送りした。
2・杖の身をいたはるごとく春の蝶
(つえのみを いたわるごとく はるのちょう)
ご主人と一緒に住んでいらっしゃる千葉の公園で、きっと春の蝶に出逢っているだろうな、と、散歩中のお二人を想像して詠んだ。