第百五十五夜 目迫秩父の「初桜」の句

  初桜男同志も恋に似て 『新歳時記』平井照敏編

 今年の桜の時期は、新型コロナウィルスが世界中に蔓延して、日本も、最初はなるべく外出は控えるように国から言われ、娘の会社はテレワークになり、その次には、東京を初めとして七つの都道府県に緊急事態宣言が発令、茨城県守谷市に住む私も、外出は買い物と銀行と犬の散歩だけである。
 私も俳人の端くれだから、スーパーの道も銀行の道も、桜の咲く順を考えながら出かけてはいるけれど、一人では気勢が上がらない。
 掲句は、花見の心準備をしながら幾つかの歳時記に見つけた作品である。
 
 鑑賞を試みてみよう。
 
 わが家の酒飲みの亭主を見ていると、この俳句の心持ちがわかるような気がしてくる。最近は酒量は減ってきたが、かつては毎晩のように飲み、元気に喋りまくり、言い争い寸前となっていた。
 終戦後には会社のストライキが盛んな時代であったから、目迫秩父も組合の同志として、お酒を酌み交わしながら、激論を戦わしたりしていたであろう。

 腹を割った話でも、傍で聞いていると大声で喧嘩をしているようだ。しかし不思議に、片方が昂ぶると片方は鎮まり、或いは上手く躱(かわ)したりしている。互いの言葉の一つ一つが絶妙なのである。若き日の男同志の、あの絶妙な機微は見事である。恋の手管というのがあるが、男同志にも手管があると思うことがあった。
 老年になっても、古い友人と酌み交わす時間は大事にしている。文学でも哲学でも俳句の話でも、昔と違って穏やかではあるが、横で聞いていると、やはり女房といえど割り込むことはできそうにない、男と男の世界がある。

 目迫秩父(めさく・ちちぶ)は、大正五年(1916)―昭和三十八年(1963)、神奈川県出身の俳人。昭和十六年、昭和特殊製鋼に入社。昭和二十一年、スト争議により退社。同年「濱」に入会し大野林火に師事。昭和二十四年、結核を発病。貧困生活の中、入退院を繰り返しながら意欲的に病涯を詠んだ。代表句〈狂へるは世かはたわれか雪無限〉ほか。昭和三十三年、句集『雪無限』により第7回現代俳句協会賞を受賞。昭和三十八年、喀血による窒息で死去。「濱」では追悼号が組まれた。

 もう一句、作品を紹介させていただこう。
 
  夜蛙やくすり買ふ金敷寢して

 一家の主人が肺病となれば貧困生活であったことは想像できる。目迫秩父は、明日医者に行って薬代を払う大切なお金を蒲団の下に敷いて寝たという。一番安全な場所が蒲団の下であったのだ。辺りの田んぼにはもう水が張られて、カエルたちは元気に鳴いている。カエルの鳴き声が「がんばれ!」と言っているように聞こえる。 
 目迫秩父は、〈せがまれしさかだち吾子と裸なり〉の句のように、また子どもと逆立ちやらボール投げをしてあげたいと心に願った。