第百七十八夜 富澤赤黄男の「鶏頭」の句

 富澤赤黄男の作品は、句の意味を探ろうとすると手強く、難解だと思うと罠に落ちそうになる。四ツ谷龍氏の編著『蝸牛俳句文庫16 富澤赤黄男』の初稿を、編集で拝見したときのドキドキした気持ちを思い出しながら、素直に鑑賞してゆけたらと思う。
 
 作品をみてゆこう。

  鶏頭のやうな手をあげ死んでゆけり 『天の狼』
  
 戦場では、自分のすぐ横で闘っていた仲間の兵士が鉄砲に撃たれ、もう助かる術のない、死にゆく仲間の姿に直面することがある。もしかしたら自分であったとしても不思議ではない死である。
 「鶏頭のような手」を考えた。真っ赤な塊を感じさせる花である。生きたい、と叫んでいる強い意志を思わせる鶏頭である。友もまた鶏頭のような意志を持ってをり、手を上げているのだ。下五は「死んでゆけり」として、赤黄男の描写の手は最後までゆるむことない。読み手の我々はやがて、友の手がだらりと落ちて、命が尽きたことを知らされる。

  蝶堕ちて大音響の結氷期 『天の狼』

 作品を目にした途端に、蝶が氷の上に堕ち、氷が張りつめようとしている湖にオーケストラの「ジャジャジャジャーン」と形容したいほどの大音響がした。
 「蝶堕ちて」のあえかな小さな物音と、「大音響の結氷期」という大音声の、二物衝撃の作品であるが、余りにも壮大なスケールである。 
 
  恋びとは土竜のやうにぬれてゐる 『天の狼』
  
 好きな作品の一つ。恋人というのは、乾くことのない地中の泥に棲む土竜のように、互いに思いやる情のある心でしっぽりと濡れた世界にいる二人のこと。赤黄男の作品には珍しくロマンチックな詠み方と思ったが、恋人を土竜に喩えたところが赤黄男であった。

  爛々と虎の眼に降る落葉  『天の狼』

 一読、「爛々と」は虎のぎらついた眼の輝きだと思ったが、何度も読み口ずさんでみると、どうやら爛々と煌めいているのは、落ち葉である。
 赤い葉っぱ、黄色い葉っぱ、茶色の葉っぱ、この三色が混ざり合い、その上に陽の光が降りそそごうものなら、虎が獲物を前にした眼の輝きに負けない落葉の輝きである。
 
 こうして見ると、一句目は「蝶」、二句目は「土竜」、三句目は「虎」という動物を詠んでいるのに動物の役割を果たしているわけではない。作者の目を透りぬけたのは、繊細な感性なのではないだろうか。

 富澤赤黄男(とみざわ・かきお)は、明治三十五年(1902)―昭和三十七年(1962)、愛媛県保内町生まれ。早稲田大学政治経済学部卒。俳句は、「ホトトギス」の投句に始まる。昭和十年、日野草城の「旗艦」に参加。日中戦争に出征、〈戛戛とゆき戛戛と征くばかり〉など戦争の過酷な現実と人間の魂の孤独を見据えた迫真的な前線俳句を詠む。季語を超え、口語表現によるモダニズムに傾く。第二次世界大戦後は『太陽系』、『薔薇』を創刊し、ひたすら新興俳句の道を進み、俳句という詩型に、詩的可能性の限界を追求した。