第百七十九夜 高柳重信の「耳の木」の句

 高柳重信を師と仰いでいる夏石番矢氏の編著『蝸牛俳句文庫13 高柳重信』を、本書の編集で300句の作品に感動しながら読んだ日々を思い出しながら、今、再び手にしている。このブログ「千夜千句」は短いので、重信ならではの多行形式の作品をみてゆくことにする。
 番矢氏はあとがきの冒頭に、「高柳重信の俳句作品は全句そろって哀切。ことに第六句集『遠耳父母』の「耳の五月」一連までは、重苦しい鬱屈感がどの作品にも染み込んでいる。」とあった。

 その『遠耳父母』から三句をみてみよう。多行形式の改行の箇所には/を入れてある。一句だけ改行してみるが、実際は「縦書」である。
  
  耳の木や/身ぐるみ/脱いで/耳のこる 『遠耳父母』

  耳の木や
  身ぐるみ
  脱いで
  耳のこる
  
 耳の木には耳が二つ生えている。その木から余計な枝葉という身ぐるみの一切合財を脱いでしまうと「耳」だけが「のこる」という。たとえば、顔も身体も動かせない病人、目も見えない、言葉も喋れない、だが二つの耳だけが残った。この鋭敏な耳に頼るしかない人。
 句集『遠耳父母』は、人間の生の暗い面を追求した句集であるという。「見殺し」「親殺し」「主殺し」「子殺し」など詠んでゆき、やがて「耳鐘(みみがね)」が鳴り出す。耳鐘は耳鳴りとは違う。耳の持ち主の死を知らせているという。
 重信は肺を止んでいて、この頃は、大喀血の後であった。

  沖に/父あり/日に一度/沖に日は落ち 『遠耳父母』

 大海原の沖を見ているとき、ああ、父はあの沖にいるのだと感じた。そして西方に、日に一度、沖に日が落ちる。荘厳な夕日が沈むのを見るたびに「沖に/父あり」と、父祖の存在を新たにする。

  母は/島籠め/死に忘れして/狂ひもせず 『遠耳父母』

 古来より伝統的父系の民族だから、母は父に従属するものと見なされてきた。「島籠(しまご)め」とは、家庭に縛られて生きてきたという意味で、まあ、つい戦前までの女性は、一家の主である男性に従属というか隷属して生き、朝から晩まで「己」を捨てて生きていた。
 あまりの忙しさに「死に忘れして」しかも「狂ひもせず」に生きていた。それが母であり女であったという。

  泣きじゃくる不思議なものをふところに 『山川蟬夫句集』

 この作品は、言葉では説明しにくいけれど惹かれる。「泣く」は、悲しいときに声を出して泣き、「泣きじゃくる」は、悲しいときも声を呑みこむようにして泣くことだという。番矢氏は、「人は得体の知れないものが自分の身体に宿っていると感じられるときがある。」と解説している。
 それは何だろう。大人になり老年になると「泣きじゃくる」ことはしなくなったが、私も子どもの頃は泣きじゃくっていたし、わが子たちも泣きじゃくっていた。
 今思うと、相手の意見と違うとき、それが何だか言葉で説明できないとき、だが自分にとって大切な宝物であるとき、黙って泣きじゃくっていたような気がしている。

 高柳重信(たかやなぎ・しげのぶ)は、大正十二年(1923)―昭和五十三年(1983)、東京小石川生まれ新興俳句の富澤赤黄男に師事。〈きみ嫁けり遠き一つの訃に似たり〉など、一行詩俳句作品もあるが、重信の俳句の画期的な特徴は、〈時計をとめろ/この/あの/止まらぬ/時計の暮色〉などの多行形式、カリグラムの表記法(文字で蝶やピストルや階段の形に配列)、暗喩の駆使などによる一句の作品に屈折や重層性をもたせたものである。富澤赤黄男の「太陽系」「薔薇」に参加、昭和三十三年より前衛俳句雑誌「俳句評論」で総合編集。昭和四十三年より、俳句総合誌「俳句評論」編集長。