第百八十夜 高浜虚子の『五百五十句』時代

 句集『五百五十句』は、昭和十一年から十五年までの作品が収められ、「ホトトギス」五百五十号を記念して昭和十八年に刊行された第二句集である。また、発行年の昭和十八年二月二十二日に満七十歳を迎えた虚子の古稀記念ともなった句集である。私は、虚子五句集の中で唯一、『五百五十句』の初版本を入手した。紙不足の時代の刊行であるのに、和紙袋綴、A5判箱入の、今見ても贅沢な本造りである。
 
 昭和十一年から十五年の時代というのは、俳壇に大きな変化のあった時代である。
 
 Ⅰ・虚子が昭和三年に、「花鳥諷詠」「客観写生」を提唱したことが序奏となり、昭和六年、徐々に、虚子と秋桜子の写生の考え方が違ってきたことから、秋桜子は、虚子の「ホトトギス」を去るに至った。
 
 Ⅱ・新興俳句運動が興ったのは、この秋桜子の離脱が契機であった。しかし昭和十年の頃になると、新興俳句運動はさらに有季定型からも離れ、無季や超季も容認する方向へと進む一派の俳人が生まれた。やがて、その一派の人たちは、秋桜子たちとも分裂するに至った。
 
 Ⅲ・昭和九年、俳句総合誌「俳句研究」が山本健吉を編集長として改造社から発刊された。俳誌「ホトトギス」が絶対であった時代が、「俳句研究」の出現によって少し変化してきた。この「俳句研究」を舞台にして、「ホトトギス」の俳人も反ホトトギスの俳人も共に作品や論戦において活発な時代でもあった。
 子規没後から始まった河東碧梧桐の新傾向俳句運動の場合は、虚子は厳しく反撃し対抗した。しかし、碧梧桐の新傾向俳句運動と同じように進み、新興俳句運動の俳句の終着点は同じであろうと考えていたからか、新興俳句運動に対しては表立っての反論は発表しなかった。
 この頃には、昭和三年に提唱した「花鳥諷詠」「客観写生」は、実作の上からも確立していて、虚子の俳句理念がもはや揺らぐことはなかった。
 だが「ホトトギス」内部にも一部の会員に、新興俳句運動の余波は及んでいた。
 
 Ⅳ・昭和十一年二月十六日、虚子は、六女章子を同伴して箱根丸に乗って四か月に及ぶ初めてのヨーロッパ旅行をした。出港して間もない二月二十六日には、二・二六事件が勃発、虚子はこの事件のニュースを洋上の箱根丸で聞いた。
 
 Ⅴ・六月にヨーロッパから帰国した後、虚子は十月号の「ホトトギス」誌上で、「同人変更」として名前のみ書かれた社告を出した。文面は簡単であった。「ホトトギス」に在籍しながらも当時、無季俳句容認派の旗頭となっていた日野草城、吉岡禅寺洞の二人と、行動において虚子と相容れなくなった杉田久女を併せた三人が同人を除名された。
 
 Ⅵ・昭和十二年には、盧溝橋事件を発端に支那事変(日中戦争)が始まり、ドイツではヒットラー政権下であった。世界は、第二次世界大戦の大きなうねりに入ろうとしていた。
 
 Ⅶ・昭和十二年、子規門で共に学び、共に子規双璧と呼ばれた碧梧桐を亡くした。
 
 Ⅷ・昭和十五年、京大俳句事件が起こり、新興俳句陣営にいた主な作家たちが逮捕され、新興俳句運動は一旦は終息へと向かった。一旦というのは、新興俳句運動に参加した俳人たちは、戦後になって新たな道を歩み始めたからである。
 
 Ⅸ・「ホトトギス」と「虚子消息」を見ると、虚子は、戦場へ赴いた人たちへ常に配慮をし、戦勝の報告があれば共に喜び、新聞社から開戦記念の句を求められた時には句を寄せていた。
 
 こうした情勢が通奏低音となって響いているのが、『五百五十句』時代である。
 『五百五十句』から見えてくる虚子を、私なりに、探りたいと思う。
 
 虚子研究においても俳句の歴史からみても世界情勢からみても、大きなうねりの時代なので、ブログ「千夜千句」の中でも、作品を挙げて紹介したいと思っている。