第百八十四夜 高浜虚子の「霙(みぞれ)」の句 『五百五十句』3

 今回、欧州旅行の箱根丸が碇泊した最初の外地が中国の上海である。長江の最下流部を揚子江と呼んでいるが、その濁った揚子江から支流の黄浦江を遡ったところに上海の港がある。

  九
  上海の霙るる波止場後にせり
     二月二十六日。箱根丸船中。

 ■この句の背景

 虚子六十三歳の作。季題[霙=冬]
 二月二十四日の朝、箱根丸は上海港に着いていた。上海は、イギリスがアヘン戦争の代価で得た土地で、南京条約により租界という外国人居留地となった街である。ここに日本租界もできた。四年前の昭和七年には、日本軍と中国抗日軍の間に第一次上海事変が起きた所でもある。
 この日、虚子一行は、上海事変の戦の跡地や戦死者を祀る神社や日本陸戦隊の兵舎も見に行ったりしている。夜には、上海在住の「ホトトギス」門下の小句会に参加し、料亭の月廼家で歓迎の招宴を受けた。
 二十五日は、月廼家で日本からの電話を受け、この日も句会があり、頼まれた俳句の揮毫をした後、船に戻った。
 二十六日は、東京日日新聞からの無電に応えて、記事と俳句を返電したが、その作品の一つが、詠んだばかりの〈上海の霙るる波止場後にせり〉である。

 ■句意と鑑賞

 「上海の」……上海の、
 「霙るる波止場」……霙まじりの寒い波止場を、
 「後にせり」……出航して、次の港へ向かいましたよ。
 
 掲句の季題は冬の「霙」。立春を過ぎると、ふつうは春の季題にこだわって詠む。しかし虚子は、日本で詠むのとは異なって海外旅行中ということもあるが、日本の季節を気にせず、その土地の気候に合わせて、冬の「霙」を使った。
 上海は日本の九州と同じくらいの緯度だが、三寒四温を経て上海も本格的な春になるのだろう。
 そして、二十六日、箱根丸は、霙の降る波止場を離れて次の目的地へと向かった。
 
 ■二・二六事件

 昭和十一年二月二十六日、日本では二・二六事件が起きていた。掲句を詠んだ頃には無論、虚子はまだ事件のことは全く知らされてなかった。
 翌日の二月二十七日になって初めて、虚子は船長から事件を次のように聞いた。
「時に今朝のニュースが這入つたが、日本は大変な事が起つてゐます。斎藤内大臣、岡田首相が暗殺されて、高橋蔵相以下傷いたものも沢山あるとの事であります。」
(『渡仏日記』より)

 この日の虚子の『句日記』には、前書を付した次の句があった。

     二・二六事件の報到る。
  水仙に日本のニュース聞いてたゞ

 この作品は『五百五十句』に入ってはいない。しかし、『五百五十句』を作るために自選をして作品を並べる際に、「二月二十六日」の日付のある掲句を、虚子は意識的に詠んでおきたかったかもしれないと、思ったのは考えすぎだろうか。
 事件当日の日本もまた、大雪であったという。