第百八十五夜 高浜虚子の「春潮」の句 『五百五十句』4

 欧州旅行への船旅が、ヨーロッパの入口のフランスのマルセーユ港に着くまでの主な作品を、しばらく「千夜千句」で続けて紹介してみることにする。

  十
  春潮や窓一杯のローリング
     二月二十九日。朝、香港出帆。

 ■この句の背景

 上海を出港した箱根丸は、翌二十八日に香港へ数時間立ち寄った。虚子は、案内されてイギリス領である美しい香港の街をドライブをし、夕餉を楽しんだ後、再び船上の人となった。
 虚子六十三歳の作。季題[春潮=春]

 ■句意と鑑賞

 「春潮や」……香港を出帆した箱根丸は、再び、春潮にのっている。
 「窓一杯の」……船室の窓には、波が大きく盛り上がったり、波が全く見えなくなったりしている。
 「ローリング」……横揺れしていたのだ。

 船や飛行機で、横に大きくうねるように揺れることをローリングと言う。ちなみに、上下に縦揺れすることをピッチングと言うそうだ。
 虚子は、船酔いになるどころか、大揺れを楽しんでいる。浴衣に袴をつけて草履をはいて、甲板をよろよろと歩くが、うまくバランスはとれている。
 季題「春潮」には、どこか心を浮き立たせるところがある。
 
 ■章子へ支那服のプレゼント
 
 香港滞在の最後は、千歳花壇という日本料理店で夕食となった。娘の章子が薄手の服を準備していなかったことを虚子が話すと、芸者の久千代が、薄手の支那服を持ってきた。女将と久千代と松千代の三人がかりで着せ替えが始まった。それは章子によく似合った。久千代は、「お嬢さま。それで宜しければあげますわ。」と言った。この出来事を、虚子と章子がそれぞれ綴っている。
 「蟬の羽衣のように薄い絹の布であって、美しい薔薇の模様が付いてゐた――別室に行って着替をして現れてきた章子を見ると、恰も自分のために誂えたもののやうであつた。」(虚子の『渡仏日記』より)
 「今でもこの支那服は、私の子供の頃からの物を入れてほとんど一年中引出しを引くこともないような、古い箪笥の中に入っている。」(上野章子随筆集『佐介此頃』より)

 ■『渡仏日記』より

 『渡仏日記』には、虚子は大型船の揺れる様子を書いている。

 「ローリングばかりでない。ピッチングも加はつて、一万余トンの船が盥を廻すやうに荒波に翻弄せらるる時でも、甲板に立ち、手摺によりながら、大空の星を掻き廻すやうにメーンマストが揺撼するのを見るごとに、一種の痛快さを覚えるのは、私らに祖先の霊と相通づる或物があるのであらう。」

 祖先の霊とは、瀬戸内海の海賊の討伐のためにやってきたのに、最後は海賊の頭領となった藤原純友のこと。伊予人の虚子にも騒ぐ血が流れていたのだ。

 この香港を出帆の日、ホトトギス同人であり今回の箱根丸機関長である上ノ畑楠窓の部屋で、第一回目の洋上句会が開かれた。なにしろフランスまでの片道でも四十日間も同じメンバーで船上にいるのだから。このメンバーには、作家の横光利一もいた。また楠窓は、乗客から初心者も誘い、終には箱根丸のスチュワデスや機関士まで誘って、十五人ほどの句会が始まった。
 この洋上句会はスエズまで続いた。