第百八十七夜 高浜虚子の「稲妻」の句 『五百五十句』6

  十五
  稲妻のするスマトラを左舷に見

     三月五日。新嘉坡碇泊。日本人共同墓地に二葉亭四迷の墓を弔ふ。敬二、楠窓同道。章子は途中空葉居に下車。帰途敬二居に立寄り帰船。正午出帆。

 ■この句の背景

 この日、日本人共同墓地に二葉亭四迷の墓に立ち寄り、正午には箱根丸は次の地へと出航した。
 虚子六十三歳の作。季題[稲妻=秋]

 ■句意と鑑賞

 「稲妻のする」……行く手に激しく光る稲妻が見える。
 「スマトラを」……あれはスマトラ島だ。
 「左舷に見」……箱根丸は、右舷にマレーシア群島、左舷にスマトラ島を見ながらシンガポール海峡からマラッカ海峡へと進んでゆく。

 季題は「稲妻」。日本では、秋の夜の遠い空に、音もなく走る稲光を稲妻といい、この時に稲は実ると古くは信じられていた。歳時記は、日本の四季の気候を中心にした季題で編まれている。虚子は春の稲妻をどう詠もうかと悩んだりはせず、三月の稲妻を、シンガポール海峡で実際に見たままの景を詠んだ。
 東南アジアでは、一年を通じて気温の変化は大きくないので、年に二度も三度稲作ができる。ここは二毛作、三毛作の地である。東南アジアのシンガポールは今、稲が豊かに稔り、収穫の時期であった。
 
 ■二葉亭四迷の墓

 詞書に小説家二葉亭四迷の名を見て、筆者の私は驚いた。『浮雲』の小説家としてよりも翻訳家として好きな作家であった。その写実主義の描写と言文一致の文体で当時の文学者たちに大きな影響を与えたことは事実である。四迷が翻訳したツルゲーネフの作品『あひびき』『めぐりあひ』などのロシアの大自然の描写の美しさに憧れたことがある。
 その四迷は、明治四十二年、朝日新聞記者としてロシア赴任からの帰国途中、ベンガル湾上で肺炎の悪化により客死した。この海を、魔の海と船員が言うことがあるという。
 虚子の『渡仏日記』から、一部を引用させていただく。

 「『二葉亭の墓はあれです。』
と、指されたところを見ると、それはゴムの並木の突き当たりに立つてゐる「二葉亭四迷之碑」と書いてある碑で、他の墓とは異つてゐた。
 『船の上で死んでも水葬にしないでこゝまで持つて来たものでせうか、どうもこれは墓らしくないが。』
 『いや、こゝへ埋めたものです。』
 私達は暫く黙つてその前に立つてゐた。供へる香華もなかつたので、たゞ帽子を取つてその前に立つたのみであつた。ハラハラとゴムの木の落葉がする。耳を澄ますと、南洋鶯と呼んでゐる鳥が鳴く。山鳩が鳴く。」

 二葉亭も俳句を作っていた。互いに交遊があったわけではないが、後に虚子は、「二葉亭主人の俳句の草稿を見る」という一文を「ホトトギス」に発表した。