第百九十二夜 青木月斗の「雹」の句

  八大竜王怒って雹を抛(なげう)ちし  青木月斗
  
 掲句をみてみよう。
  
 「雹」は夏の季題。積乱雲の発達によって、激しい雷雨にともない降る氷塊を「雹」という。初夏の頃、豆粒大から卵、さらには拳大の大きさになることがあり、果樹や野菜の成長期に降雹するので、雹害となることがあるそうだ。
 「八大竜王」とは、水や風に関係するとされることが多いが、仏法を守る八体の竜王である。その天の神々が怒って雹を投げつけているのだと青木月斗は、雹の激しさを捉えた。
 令和2年のまさに今、地球全体がコロナウィルスに襲われているが、やはり、天の何者かが人間世界に対して怒っているように感じられてならない。
 
 青木月斗は、明治12年(1879)―昭和24年(1949)、大阪市船場の生まれ。正岡子規門下の俳人。俳誌「車百合」を創刊主宰。大阪俳壇の草分である。妹の茂枝が俳人河東碧梧桐と結婚。しかし碧梧桐の新傾向俳句に組みすることはなかった。

 さて今宵の「千夜千句」は、20年ほど前の5月24日、当時住んでいた茨城県取手市に降った雹のことを書いてみる。
 この日、仕事から早目に帰路に就いた私は、4時ごろ、常磐道の谷和原を下りて取手市へ向かう途中、景色の異変に気づいた。道路脇には、落葉のように緑色の葉がちぎれ、新芽をつけたままいっぱい落ちている。新緑の落葉から木の梢へと目をうごかすと、葉は破れ、枝先は裂かれたようになっている。
 「雨風がひどかったのかしら?」
 買物して帰ろうとスーパーに立ち寄った。垣の躑躅は、花も蕾も全て落ちていた。何か変だ! 躑躅の根元には、まだ塊のままの氷片が、雪のように降りて積もっていた。
 「これは、雹だわ!」
 取手に住んでいる私は、常磐道、外環道を通って東京まで仕事に行くが、5月24日の朝は、真冬のように横風が強かったので、ハンドルに気をつけてはいたが、日毎に美しくなる銀杏並木の新緑に目を細目ながらふれあい道路を運転していたのであった。
 その日、六時間前に出かけた時と戻ってきた時の景色の違いに、私は愕然とした。
 ラジオを音楽からニュースに変えると、取手市近辺が一番ひどく雹が降ったと言っている。
 わが家は大丈夫かしら・・・。
 
 家の近くのプラタナスの街路樹は、新芽が付いたまま、ちぎれた葉となって歩道に散らばっている。プラスチックの駐車場の屋根や物干し屋根は、ぼこぼこに穴が開いている。車のボンネットは行平鍋のようにでこぼこだ。看板も落ちている。誰もが店や家の周りを掃除している。新樹の青汁の匂いが鼻を突く。庭に、昨日は一面に咲いていたスイートピーの花が一つ残さずに消えている。菊の花芽も、葱坊主も、折れている。
 次々と目を向けてゆくのが怖いほどであった。

 マンションの三階のわが家に戻ると、留守番をしていた母が堰を切ったように話し出しす。
 「お昼頃もの凄い雷が鳴ったのよ。風も雨も酷くて、凄い音をたててピンポン玉ほどの雹が、ガラス戸を叩きつけるように降ってきたの。1時間ほどだったかしら。」「ガラスが割れやしないかと、怖かったわ!」
 しかし、わが家は何事もなかった。その日のニュースと夕刊を食い入るように見ると、どうやら、雹は極地的で、茨城県の取手市が一番酷くて、雹は直径5センチから夏蜜柑ほどであったという。そんな大きさの雹の玉が大砲のように木々に野原に畑に降ったのだ。

 行きがけ、ハイウェイからバックミラーに映る取手方面の空は真っ黒であった。その時すでに雹が降っていたのかもしれない。仕事ではあるが、偶然、その時間だけ、私は取手を留守にしていた。不謹慎だが、俳句に携わる者としては、これだけ大きな雹をこの目で見ることが出来なかったことは少し残念だった。

 取手市の駅前から水海道への「ふれあい道路」の銀杏並木は暫くは、うっすらと黄ばんで初秋の景色のようであった。草も花も木々も、柔らかな緑の美しさを失ってしいた。元へ戻ることはあるのだろうかと思っていたが、自然の復元力は凄い。