第百九十三夜 高浜虚子の「木の芽」の句

 全ての予感を秘めて鎮もりかえっていた早春が過ぎて、桜の花へ心の高まりを一気に持ってゆき、その慌ただしさも過ぎて、花疲れの中でひと心地をついていると・・・。いつの間にか木々の梢は賑やかになり、いつの間にか少しだけ異なった色合いを見せて、木々は芽吹きはじめている。
 大好きな雑木林を見にいかなくては・・・。
 
 4月の中頃、夫を誘ってコロナ禍のなか国道6号線を北上し、牛久沼を左に眺めつつ右折して、久しぶりに龍ケ崎市の蛇沼公園に出かけた。雑木林は、期待していたとおりであった。花は終わり、よい具合に、高木の山桜が、冬木から漸く芽吹きはじめた雑木林のクヌギやナラの樹幹をぬうように散っていた。
 
 ■高浜虚子の「木の芽」の作品をみてみよう。

  大寺を包みてわめく木の芽かな 『五百句』
  槶原(くぬぎはら)ささやく如く木の芽かな 『五百句』
  
 『虚子五句集』には季題「木の芽」「木々の芽」の作品は10句であった。次の2句は、虚子が俳壇復帰した後の作品である。

 一句目、大正2年の作。虚子の自解に「大寺の周囲の森が一時に木の芽を吹く時の力を言つたのである。「叫喚(わめく)」といふ言葉の適合は問題となるであろう。」とある。
 私は「わめく」に何の違和感もなく、「木の芽」の作品の中で一番好きな句であった。
 今回、虚子は木々の芽吹きを「音」として捉えていたことに改めて気づいて驚嘆した。大多数は「色」として感じるであろうと思ったからだ。
 「わめく」は「阿鼻叫喚」という責め苦に堪えられずに泣き叫ぶほどの激しい音である。20歳の頃まで、私は広大な雑木林の横に住んでいたので、毎年、早春の芽吹きの勢いを目の当たりにしていた。それこそ、日々、林の緑はみるみる濃くなっていったので、「わめく」と詠まれたこの句に出合って喝采した。

 二句目は、昭和2年の作。クヌギ林の芽吹きを「ささやく」と、やはり「音」として表現した。雑木林はクヌギやナラが多いが、クヌギの芽吹き初めの柔らかな色彩と触感から感じられる木の芽を音にしたならば、それは「ささやく」であると思う。
 客観写生を自ら実践しつつ唱導しつつ、翌昭和3年、虚子が「俳句は花鳥諷詠詩である」と提唱した時期であった。

 ■雑木林のこと

 俳句を始めたころ、やはり俳句に夢中だった父とよく吟行した。木や草花の好きな父は名前をひとつひとつ教えてくれた。 初めての父との吟行は早春の小金井公園であった。都内の一番大きな公園である。公園の奥まった処には幹を太々とみせて深い雑木林がある。ざらざらとした幹を、つぎつぎに触ったり叩いたりしては樹の名を口にしていった。

 いわゆる雑木林と呼ばれるのは、落葉大木・中木のブナ科、カバノキ科の「櫟(クヌギ)」「アカシデ」「ミズナラ」「カバ」「クリ」等が主である。この木々を、冬木の幹だけで見分けるのはとても難しい。葉が出て、少しずつ違う花が咲き、そうだ、これはクヌギだった、と分かるのだ。
 一年を通して、一つの木を覚えるのだが、花が咲き終わり、葉が無くなり、また分からなくなってしまう。翌年には父と一緒に「これがクヌギ、これがミズナラ・・」と始まる。
 雑木林のステキなところは落葉樹からだ。無から有、有から無の世界へと変化するのがいい。

 そして、春の芽吹きには、父と吟行するようになって発見したことがある。
 「これがクヌギの花だよ。」
 「えっ! 葉っぱだと思っていた!」
 クヌギの花とは、薄緑の簪(かんざし)のようにぞろりと六七本の花柱が穂のように垂れ下がっているのである。雑木林の芽吹きとは、葉と花との両方であった。緑色なので、花だとは思わなかったのだ。
  
  仕事に倦み櫟は花をぶらさげて  あらきみほ