第百九十七夜 平井照敏の「鰯雲」の句

 私が日々使う歳時記は、虚子編『新歳時記』、『蝸牛 新季寄せ』、平井照敏編『新歳時記』全5巻の3点である。平井照敏は『蛇笏と楸邨』所収「歳時記問題始末」に、「私は自分の歳時記(河出文庫版『新歳時記』)に本意の項目をつけたのである。本意とは季語の歴史的な意味なのである。歴史的なこころなのである。ことばの歴史は潮のうねりのようなもの。急がずあせらない。それに比べれば、一つ一つの季語の適否の問題などは、ずっと小さな、浜辺にさざめくさざ波のようなものなのである」と、書いている。

 今宵は、皆吉司編『秀句三五〇選 笑』集中の大好きな句〈鰯雲子は消ゴムで母を消す〉をきっかけに、平井照敏の作品を紹介してみることにしよう。

  鰯雲子は消ゴムで母を消す 『猫町』

 第一句集『猫町』の句。妻と喧嘩した男の子が、「ママなんか消ゴムで消しちゃえ」と言ったときの実景であるという。叱られて悔しくてぷんぷん怒っている子の反抗が、大好きなママを消しゴムで消してしまおう、消してしまえる、と考えたところが、幼い男の子らしい発想でじつに可愛らしい。
 「鰯雲」は秋の季題。驚くほど巨大な鰯雲を二度見たことがある。一度目はハイウェイで、二度目は五浦の六角堂で見た太平洋へと進む鰯雲である。雲は鱗のようにも鰯のようにも見え、大群がずんずんと進んでゆくように見える。その姿が、心の動きと響き合って、俳句に詠むときに上手く働いてくれる。

  ふと咲けば山茶花の散りはじめかな 『天上大風 』

 山茶花と椿は似ているけれど、違うところが咲き方と散り方である。山茶花は花期が長くて、まさにこの作品のごとく、咲き始めたと気づいてから、ずうっと咲き続け、ずうっと散り続ける。山茶花の散り方は花弁は一枚づつ離れて散る。一方、椿は花弁が繋がっているので、一花ごとに散る。

  一塊の思想を構へゴリラなり 『枯野』
  
 平井照敏の自解に「上野動物園は句作につまった時出かけるところ。中でもゴリラがおもしろい。あの姿を見ると、思想を持ち、信条を持った、快男児という感じだ。」とある。
 随分と昔になるが、私も子ども二人を連れて上野動物園に行ったとき、ゴリラの堂々とした姿に惚れ惚れとしたことを思い出す。
 
 平井照敏は「寒雷」の加藤楸邨の弟子でありながら、川崎展宏とともに高浜虚子の研究者でもある。違ったスタンスからの切りこみ方の虚子研究書を読むと、返って解りやすいと感じることがある。
 著書『虚子入門』のあとがきには、「馬酔木」系の人が十七音の俳句をあふれるほどの表現意欲でうめていこうとするのだとすれば、虚子は俳句表現をつきつめて黙説法にいたった俳人だったということである。とすれば、まず虚子をつかむことが基本であり、他はそこから派生してくるものであると考えるようになった。」と書いてあった。

 平井照敏(ひらい・しょうびん)は、昭和6年(1931)―平成15年(2003)は、東京都生まれ。詩人、俳人、フランス文学者。昭和29年、東京大学文学部仏文科卒業、同大学院比較文学比較文化修士課程入学。昭和34年、詩集『エヴァの家族』を刊行、フランス詩の研究も行う。青山学院短期大学に勤務しのち教授。昭和40年、ごろから俳句を作りはじめ、加藤楸邨に師事、「寒雷」に入会。寒雷賞受賞、同誌編集長になる。昭和49年、句集『猫町』を刊行、主宰誌「槇」を創刊。平成元年、評論集『かな書きの詩』で俳人協会評論賞を受賞。平成14年、『蛇笏と楸邨』で山本健吉文学賞評論部門受賞。