第百九十九夜 西野文代の「なめくじり」の句

 蝸牛社刊『俳句・背景17 おはいりやして』から、紹介させていただこう。このシリーズは、33テーマによる俳句と随筆の愉しい競演を意図したシリーズである。右ページに5句、左ページには右ページの作品の背景をお書きになる方が多い。一方、俳句の工房は密か事であるとして他人には見せたくないとして、全く関係ないことではないが、心象風景としてお書きになる方もいらした。
 西野文代さんは、『おはいりやして』の執筆をしていた頃は、波多野爽波の「青」、辻桃子の「童子」で活躍されていた。
 本書が刊行されて22年目、久しぶりに読むと、当時の私には理解しにくかった関西特有の「かろみ」に気づいた。それは俳句だけではなく、左ページに付した文章の軽やかさ、掴み取った厳しさと真実、だが作品には、人生を重ねた人の知る本当の優しさにあふれていた。
 
 鑑賞してみる。

  おまへまで茹でてしまうたなめくじり 『おはいりやして』
  
 わが家の夫は、ここ20年は野菜づくりに凝っている。ところが妻の私は草取りも水汲みもしない。基本は台所まで野菜を運んでくれたら料理はしましょうという、とんでもない相棒である。
 この作品を見てハッとした。山のような野菜を下茹でして保管することが多く、確かに私は、蛞蝓を茹でてしまったことがある。固くなった姿は、生きているときの触れればゾッとするぬめりとは異なる「ゾゾッと」する感触であった。

  つくづくとはて面妖と蟇ひとを 『おはいりやして』
  
 下五「蟇ひとを」は「蟇人を」である。人は蟇を面妖(不思議で奇妙な)と言うけれど、蟇から見る人間だって同じことで、つくづくと面妖なものである、という句意となろうか。
 文章が愉快なので、改行の部分は「/」を入れて紹介してみる。
 「なに、これ/蛙よ/蟇だ/蟇にしては小さいよ/でもこのみにくさ、やっぱり蟇よ/蟇って季語でしょ/そう/蟇って跳ばないでのそのそ歩くのよね/そういえば片脚伸ばしたままだ/歩きかけてたんだ/止まるのなら、ひっこめればいいのに/だらしないね/だらしないというよりのろまなのよ/あっ、こっち見てる」
 「ウルセッ!」(カタカナは蟇語)

  なはとびにおはいりやしてお出やして 『おはいりやして』
  
 これは、まさしく「縄跳」だ。近年、何十人もの子どもが途切れることなく、何百回と跳ぶ回数を競う競技がある。一回一回が、おはいりやしてお出やして、であり、この作品を考えている限り、縄は回転しつづけ、子どもは跳びつづけ、「おはいりやしてお出やして」はつづく。
  
  海が盛りあがる冬空降りてくる 『おはいりやして』
  
 この海は、日本海の三国。高浜虚子の小説『虹』の舞台である。肺を病んだ愛子は、ホトトギスの虚子の弟子。虹を巡っての愛子と虚子の心の行き来であるが、虚子は病者愛子にとって観世音のようであった。西野文代さんは、冬の海の満潮の波の高さを、冬空が降りてくるようであると捉えた。私もその通りだと思った。

 西野文代(にしの・ふみよ)は、大正12年(1923)京都府生まれ。京都府立女専文科卒業。波多野爽波の「青」、阿部みどり女の「駒草」同人。その後「紫微」「晨」「童子」同人。平成11年「文」を創刊主宰、平成19年冬号をもって終刊。句集『沙羅』『ほんたうに』『そのひとの』他。『俳句・背景 おはいりやして』など。