第二百一夜 長谷川櫂の「蟇(ひきがえる)」の句

 平成26年7月、深見けん二の先生の「蛇笏賞」受賞の祝賀会が池袋にあるメトロポリタンホテルで行われた。長谷川櫂さんは、「深見先生、俳人としての最終目標が蛇笏賞受賞ではありませんよ。どうぞ益々お元気で、よい作品を見せ続けてください。」と、仰った言葉が印象的であった。後に、長谷川櫂さんは蛇笏賞の選考委員だと知ったが、おかげさまで師深見けん二は今年の3月に98歳となり、秋には「花鳥来」120周年の祝賀会が予定されている。

 長谷川櫂さんの、〈春の水とは濡れてゐるみづのこと〉〈春の月大輪にして一重なる〉などの代表句には鑑賞してみたい作品は多い。
 だが今宵の「千夜千句」では、コロナ禍による外出規制も解けたので、筑波山までの田んぼ道をドライブした折の、耳にこびりついた蛙の鳴き声を思いつつ、「蟇」の句を選んだ。

 先ずは『天球』から夏の句を紹介させていただこう。

  だぶだぶの皮のなかなる蟇 『天球』
  
 若い頃だったら、この句を見ただけで逃げたくなったかもしれない。今は、もう平気で、蟇の大きさも、のっそりした動きも、背中のいぼいぼの気味悪さも、まさに「だぶだぶの皮」を纏った蟇そのものとして、「きみは、堂々としてエライね。」と思えるようになっている。
 蟇からすれば、「だぶだぶ」と言われて気分がよくないかもしれないが、よくぞ「だぶだぶ」という言葉が浮かんできたと思う。
 さらに、「だぶだぶ」の「da」と、「なかなる」の「na」の含む母音「ア音」のくり返しが、一句の中で心地よく響いてきた。

 写生の目というのは、これだけの俳人が目を皿のようにして眺め、新たな言葉で表現しようとしているにも関わらず、気づかないことがまだ残されている。

 次の作品は、春の句。

  荒々と花びらを田に鋤き込んで 『天球』
  
 小高い林の脇にある田んぼで、耕運機で耕しの様子を見ていた時のこと。田に舞い込んでいるのは、一本の満開の紅梅が堪えきれずして散りはじめた桃の花びらであった。耕運機を止めて落花に見惚れることもなく、次々と降る紅梅の花びらは、次々に耕運機に飲み込まれていった。
 掲句は勿論、舞い込んでいるのは桜の花びらであり、鋤き込んでいるのはお百姓さんの満身の力で振り上げては土を返してゆく鋤である。
 この作品から見えてくるのは、一つは、「荒々と」に込められた人間が生きるための農作業の大変さである。もう一つは、人間が見ていようが見ていまいが、変わらず見せてくれる大自然の美しさである。
 荒々しく鋤き込まれる花びらは、命の儚さのようにも感じられるが、この農作業の慰安の一つという役目も果たしていた。
 
 たまたまだが、2句とも一物仕立ての作品を選んでいた。季語を用いての二物衝撃の配合の句とは異なり、17文字で言い切ることは、一見おとなしい句にも見えるけれど、「荒々と」の句のように、言い切るには凄い力技が要るのではないかと思っている。
 「見」ることの中に、主観も同時に含まれるものであるならば、視点は数限りなくあるということだから、わが目で見ることによって、虚子の「新は深なり」、深見けん二の「重ねる、授かる」の道をたどることもできそうだ。

 長谷川櫂(はせがわ・かい)は、昭和29(1954)年、熊本県生まれ。東大法学部卒業後、昭和53年、読売新聞社入社と同時に平井照敏の「槇」に入会。昭和53年、第一句集『古志』刊行、飴山實に師事。平成元年、評論集『俳句の宇宙』によりサントリー学芸賞を受賞。季語と切れが俳句のオリジナリティであるとした。戦後生まれの伝統派を代表する作家。平成5年、「古志」創刊主宰。「蛇笏賞」選者。