第二百四夜 宮坂静生の「草矢」の句

 もう30年以上も前になるが、宮坂静生氏は『秀句三五〇選21 虫』の編著者をお引き受けくださった。お忙しい先生は、原稿を書き上がった順に何回かに分けてFAXで送ってくださるが、当時のFAXは今ほどのスピードはなくて、一枚一枚がゆっくり音をたてて出てくる。手に受けながら片端から一番目の購読者となったのは、編集をしていた私であった。
 原稿用紙のマス目に丁寧に書かれた文字は読みやすく、テーマの「虫」の世界がわくわくするほど楽しかったことを思い出している。
 
 先ず、国文学者ならではの作品から紹介させていただこう。

  ひなぐもる碓日の坂や草矢の子 『春の鹿』
  
 「碓日(うすい)の坂」は古代の碓氷峠であることを知り、この地名が、日の曇って薄い日ざしの意から「薄日(うすび)」と同音の地名「碓氷(うすい)」であることを知り、「日曇る(ひなぐもる)」は「碓氷」にかかる枕詞であることを知った。
 古格で詠まれた「ひなぐもる碓日の坂や」という全山緑の日曇る(ひなぐもる)光景は杳として厳かですらある。
 この句は実景ではなく、万葉集の「比奈久母理(ヒナクモリ)碓氷の坂を越えしだに妹(いも)が恋しく忘らえぬかも」を典拠とした作品であろう。そして、宮坂静生は、下五に「草矢の子」を置いた。草矢遊びをする子が登場するや、一転して明るい現代の光景となった。
 
 宮坂静生は、風土を概念的に捉えるのではなく、原始感覚・からだ感覚をもって「地貌(ちぼう)」(その土地のもつ荒々しい表情)を捉えることを提唱した俳人であるという。
 この句は、氏の提唱する「地貌」を捉えることのできた作品である。
 私は、史実や万葉集や詩や絵画や映画など、あらゆることを貪欲に使いこなして俳句を詠むことも一つの技であり力量であると思っている。
 
  火に椿投じて杜国忌を修す
 
 坪井杜国(つぼい・とこく)は、名古屋の蕉門の有力者。芭蕉が特に目を掛けた門人の一人。貞享2年、手形で空米を売った咎で死罪となったが、江戸時代前期の大名、尾張藩2代藩主徳川光友に恩赦を賜い、三河国渥美郡に追放となった。2年後の貞享4年、芭蕉が越人を連れ、当地の杜国を訪ねている。杜国の命日は、6年後の元禄3年(1690)2月20日。
 当時は陰暦であるから、現代では3月、椿の花も盛りの春の作品である。「火に椿投じて」とは、何という美しく激しく哀しみの行動であろうか。
 
 宮坂静生(みやさか・しずお)は、昭和12年(1937)、長野県生まれ。国文学者。信州大学名誉教授。俳句は、昭和26年から、昭和30年から「若葉」に投句、富安風生、加倉井秋をに師事。昭和43年、藤田湘子に会い「鷹」に入会、翌年に無鑑査同人となる。昭和53年、俳誌「岳(たけ)」を創刊主宰。

 平成20年、『全景宮坂静生』花神社刊。著書に『虚子の小諸 評釈「小諸百句」および「小諸時代」』花神社、『子規秀句考 鑑賞と批評』明治書院 、『俳句地貌論 21世紀の俳句へ』本阿弥書店ほか。平成7年、第45回現代俳句協会賞を受賞、平成13年、第1回山本健吉文学賞を受賞。