第二百五夜 倉橋羊村の「西行忌」の句

 プロフィールを調べていると、倉橋羊村氏は青山学院大学の大先輩であると知り、そして今年、令和2年2月11日にお亡くなりになられていたことを改めて知った。倉橋羊村氏の作品から仏教にかなり造詣が深い方であることは感じていたが、不思議を思った。
 今宵の「千夜千句」は、著書『俳句背景22 無念でごはす』から作品をいくつか紹介をさせていただく。
 
 先ずは、新暦旧暦の違いはあるが、氏と命日の日付が近い西行忌からみていこう。
 
  風鐸鳴るは悔に似て西行忌 『無念でごわす』

 倉橋羊村は、鴫立庵の第21代庵主に草間時彦が在任された時から選者の一人として毎年参加して、〈存念はもののふのまま西行忌〉〈はみ出してゐてもわが道西行忌〉など旧暦2月16日の西行忌の作品を詠み続けてきた。
 鴫立庵(しぎたつあん)は、神奈川県大磯町にある俳諧道場。京都の落柿舎、滋賀の無名庵と並び、日本三大俳諧道場の一つとされる。名称は西行の歌「こころなき 身にもあはれは 知られけり 鴫立沢の 秋の夕暮」(『新古今和歌集』)によると言われる。
 風鐸(ふうたく)は、寺院や仏塔の軒の四隅に吊り下げて飾りとする鐘形の鈴で、風が吹くと鈴が鳴り出す。昔の寺の風鐸は重い音色であるという。氏は、どこで聴かれた風鐸の音なのか、長く生きていれば誰しも悔いはあるだろう。風鐸の鈴の音が、わが身の悔いを思い起こさせるように感じた。

  愛染や八方に散る子かまきり 『無念でごわす』
  
 息子が小学生の頃、オオカマキリの卵を持ち帰ったことがある。枝先に白くて丸いお餅のような形の卵を、ちょっとお洒落なガラス瓶に入れて下駄箱の上に飾った。ある朝のことだ。白い卵から、親のカマキリと全く同じ形の、うす緑色の子カマキリたちが、ぞろぞろぞろぞろ、出てくる出てくる、もう果てしなく感じたが、後で調べると1つの卵から孵るのは200匹ほどだという。
 「愛染」は、1・煩悩、2・愛染明王のこと、という意味をもつ。次々と生まれては「八方に散ってゆく子かまきり」の姿は、我が身の煩悩の数のように感じたのではないだろうか。

  無念でごわす田原坂寒かと 『無念でごわす』

 子ども時代を過ごした大分県生まれの私と長崎県生まれの夫は、祖父や祖母の話していた九州弁は懐かしさとともに覚えている。この作品の最後の「寒かと」も、「寒かねー」とか「寒かとー」と、語尾を伸ばしていた。「なんだか寒いねー」という意味である。
 唄にもなっている「田原坂」は、明治政府に起きた西南の役で、反乱した薩摩軍と長州を中心とした新政府軍との最後の戦いの地。新政府軍側が勝利したことから、この作品は、薩摩軍を率いた西郷隆盛が田原坂での敗戦により自刃した際の無念の言葉ではないかと思われる。山中は肌寒い3月の頃であったという。
 倉橋羊村氏は、吟行で田原坂を訪れ、資料館を訪ね、険しい曲がりくねった坂を歩いてみたかもしれない。

 倉橋羊村(くらはし・ようそん)は、昭和9年(1931)―令和2年(2020)、神奈川県横浜市の生まれ。青山学院大学経済学部卒業。昭和27年、水原秋桜子に師事し、昭和29年には俳誌「馬酔木」の雑詠欄「馬酔木集」の巻頭を飾るなど主力として活躍した。昭和39年には「鷹」を創刊した藤田湘子に従い編集長として参加するも、後に退会。平成元年、「波」主宰を継承。平成15年、句集『有時』にて第21回日本文芸大賞を受賞。著書に『秋櫻子とその時代』講談社、『人間虚子』新潮社、『無念でごわす』蝸牛社など多数。