第二百十夜 瀧井孝作の「腰高障子」の句

 蝸牛社で出版した『碧梧桐全句集』編集に携わったのは、私が、虚子に連なる深見けん二に師事をはじめて数年後であった。
 河東碧梧桐を師系とする作家瀧井孝作(俳号折柴)氏の次女・小町谷新子さんのご縁で出版の話が決まった。お預りした原稿は、瀧井孝作氏がまとめて整理までしたが刊行が叶うことのなかった、赤茶けた段ボール一杯の、一千枚近い原稿用紙に、約一万五千の句が収録されていた。

 瀧井孝作(たきい・こうさく)は、明治27年(1894)- 昭和59年(1984)、岐阜県高山市生まれ。小説家、俳人、編集者。俳句を河東碧梧桐に師事し、小説を芥川龍之介、志賀直哉に兄事した。俳号は折柴(せっさい、おりしば)。明治41年、町の魚問屋に丁稚奉公し、店の隣りの青年に俳句を教わった。明治42年、全国俳句行脚で来た河東碧梧桐に認められ、句誌への投稿を始めた。号は『折柴』(読みは初めは『おりしば』であったが、碧梧桐の勧めで『せっさい』と読ませるよう改めた)。大正3年、20歳で上京し、碧梧桐、中塚一碧楼、大須賀乙字らと句作。大正4年、碧梧桐が創めた句誌『海紅』の編集を手伝う。

 その後の瀧井孝作氏は、俳人としてよりも小説家としての活動が多かったようだ。碧梧桐の新傾向俳句運動は、様々に形を変え、昭和8年、碧梧桐は60歳の還暦祝賀会の席で俳壇引退を表明した。
 そうした俳句人生であった師碧梧桐の全句集を作るのは、瀧井孝作自身しかいないと思い、生前から準備をしていたのかもしれない。しかし、戦後の俳壇はもはや碧梧桐の時代ではなくなっていた。

 小町谷新子さんから、額装された瀧井孝作氏の俳句を戴いたのは、『碧梧桐全句集』が完成した折であった。夫の書斎の一角に飾り、私も始終目にしていた。
 そして今、手元には瀧井孝作著『俳人仲間』がある。俳句を始めた頃のこと、碧梧桐が新傾向運動を広める全国行脚の「三千里」の旅の途中で、高山に立ち寄って初めて、句会を共にしたこと、高山での丁稚奉公時代のこと、子規、虚子、碧梧桐の三者の関係のことも書かれていた。
 
 鑑賞をしてみよう。
 
  飛騨山の腰高障子に人と成り

 飛騨山脈に囲まれた岐阜県高山市は、通称「飛騨高山」という歴史と伝統文化の町である。「腰高障子」も室町時代の書院造りからのもので、障子の下部に60センチの腰板を張った障子である。
 このような地に生まれ、人は一人前の人間になってゆくものである、ということで、人を特定した作品ではないが、凛とした佇まいを感じさせてくれる。
 下五「人と成り」はそれまで余り見かけなかった言い方であり、見るたびに心に響いた。

  手賀沼の一ト冬過ぎぬ芦の角

 手賀沼は、20年前に東京から移転した茨城県取手市から車で20分ほどで行ける。古代蓮が沼の真ん中辺りまで覆われた景色が好きでよく通っていたが、さらに歴史を調べると、大正時代、湖畔には志賀直哉や武者小路実篤らの別荘もあり、手賀沼は白樺派ゆかりの地であった。志賀直哉に心酔していた瀧井孝作は、近くに住んでいたという。
 手賀沼の周囲は芦が茂っている。「芦の角」は、早春、水辺に生い出た芦の新芽のこと。この地に住み始めて一冬が過ぎたことへの感懐であろう。

  僕の春反古破るべし破るべし
  
 作家としての生みの苦しさは想像して余りある。書いては破り捨て、書いては破り捨てている作家の姿が見えてくる。『無限抱擁』『俳人仲間』『松島秋色』などが多くの著書があり、昭和49年、文化功労者に推され、昭和50年、勲二等瑞宝章を受けた。