第二百十二夜 寺田寅彦の「嚔(くさめ)」の句

 『寺田寅彦随筆集』の「からすうりの花と蛾」を読んだ私は、いつしか「烏瓜の花」を絶対に見たいと願うようになっていた。俳句の仲間を牛久沼を案内したときだ。この沼の高台にある小川芋銭居の入口で夕暮れを待った。
 とうとう、レースのような烏瓜の花に出会うことができた。
 
 寺田寅彦の文章から一部を紹介してみる。
 「毎日おびただしい花が咲いては落ちる。この花は昼間はみんなつぼんでいる。それが小さな、かわいらしい、夏夜の妖精フェアリーの握りこぶしとでもいった格好をしている。夕方太陽が没してもまだ空のあかりが強い間はこのこぶしは堅くしっかりと握りしめられているが、ちょっと目を放していてやや薄暗くなりかけたころに見ると、もうすべての花は一ぺんに開ききっているのである。スウィッチを入れると数十の電燈が一度にともると同じように、この植物のどこかに不思議なスウィッチがあって、それが光のかげんで自働的に作用して一度に花を開かせるのではないかと思われるようである。」

 この可憐な白い花が、秋には、真っ赤な「烏瓜」になるから不思議である。
  
 寺田寅彦(てらだ・とらひこ)は、明治11年(1878)- 昭和10年(1935)、高知県出身の物理学者、随筆家、俳人。筆名に、吉村冬彦、寅日子、牛頓(ニュートン)、藪柑子がある。 俳句は、熊本の第五高等学校入学後に英語教師の夏目漱石との出会いからで、やがて正岡子規の選を受ける。
 
 寅彦は漱石をよく訪ねたという。「俳句とは一体どんなものですか」と質問すると漱石は、「俳句はレトリックの煎じ詰めたものである。」「扇のかなめのような集注点を指摘し描写して、それから放散する連想の世界を暗示するものである。」と、答えたという。
 さらに漱石は、自然の美しさを自分自身の眼で発見すること、人間の心の中の真なるものと偽なるものとを見分け、そうして真なるなるものを愛し偽なるものを憎むべきことを教えてくれたという。

 鑑賞がうまくできるか心配だが、物理学者であり文学者である寺田寅彦らしさのある作品を紹介してみよう。
  
  哲学も科学も寒き嚔哉 『俳句と地球物理』

 文学少女ではあったが、私は父から「もちょっと、哲学的な思考があったらなあ・・」と嘆かれていた娘である。直感的だが理論的な構築が苦手で、哲学も科学も物理も薄ら寒さを覚えるほど。男ならここで、「嚔(くさめ)」の一つもしてごまかすところだ。

  三毛よ今帰つたぞ門の月朧
  
 ご主人様の寅彦をさっと出迎えてくれる愛猫の三毛猫。17文字だが破調の作品である。どうやらお酒が入っているようだ。「おーい、三毛よ、いま帰ったぞー」と、言いながら三毛はさっと寅彦の腕に抱き上げられている。月が朧であったのか、朧に見えたのか。無事ご帰宅の幸せな瞬間である。

  客観のコーヒー主観の新酒哉

 寅彦は、「珈琲哲学序説」の一文もあるように、大の珈琲好きである。留学、仕事で海外で美味しい珈琲に出会ってもいるが、東京の銀座に出来た「風月」はよく通ったという。一杯の珈琲は、仕事から離れて飲むことで、テーブルセッティングにも拘りがあり、様式も好みのようである。コーヒーとは、「主観の新酒」とは異なり、幾つかの客観の要素が備わって飲むものかもしれない。
 俳人であり寺田寅彦と同じ物理学者である「天為」主宰の有馬朗人の代表句に、〈珈琲の渦を見てゐる寅彦忌〉がある。