第二百十五夜 山本洋子の「夕立」の句

 平成元年、蝸牛社のテーマ別アンソロジー『秀句三五〇選4 愛』は、山本洋子さんの書き下ろしである。あとがきには、「与えられたテーマ〈愛〉は、私をおじけつかせた。最も苦手な命題。しかしまてよ。この際この〈愛〉に挑戦してみよう。」と、悩まれたようだが、それはそれは佳い作品を選び、深く、素晴らしい文章を付けてくださった。

 今宵は、平成11年に刊行の第4句集『稲の花』から作品の紹介させていただく。

  夕立のはじめに潮の匂ひけり 『稲の花』

 夕立は、夏のさかりに、積乱雲が近づき、時には雷鳴も轟かせながら、激しく地を叩きつけるように降りはじめる。雨の勢いは辺りの空気を一気にかき混ぜる。この作品は海辺であろう。
 洋子さんは、「夕立のはじめ」の瞬間に、鼻先につーんとした海の潮の香を敏感に感じとった。潮の匂いであった。

  北行きの列車短し稲の花 『稲の花』

 「稲の花」を、筆者の私が初めて見たのは、20年ほど前に東京から茨城県に移転したときである。認知症の母を車に乗せて全国2位の米どころの関東平野を走り回るのは、母にとっては気分転換、私には俳句の吟行となっていた。
 8月の中頃、牛久沼の周囲の田んぼ道を走っていたとき、稲の穂に粉のような白いものが付いていることに気づいた。車を止めて近づくと、小さな白い花がびっしり付いている。初めて知った「稲の花」である。可憐な花であった。
 家に戻ると大歳時記で調べた。稲の花は、開くと雄蕊が出て、出そろうと1時間半ほどで閉じてしまうという。あっという間に受精がおこなわれるのだ。白い花から「葯(やく)」が垂れ下がっていて、これが受精する雌蕊だという。
 掲句は、田んぼの中に、短時間で閉じてしまう稲の花を見ている近くを、北へ向かう一両列車が単線を走りぬけてゆく、そのような光景だと思った。
 だが山本洋子さんは、この小さな花の一つ一つが、秋が深まる頃には一粒の米になるという、植物の不思議の瞬間に立ち会ったのであった。
 
  月の前雪とんでゐて雪女 『稲の花』

 『稲の花』だけでなく『山本洋子句集』の中にも〈御僧とすこしはなれて雪女〉〈篠竹を曳きしあとあり雪女郎〉などの作品がある。お好きなテーマであろうか。
 「雪女郎」「雪女」は、雪の夜に白い着物をきて彷徨っている伝説の妖怪である。雪の深い夜、道に迷うと、雪煙が人に見えたりするのである。冬満月の十五日の夜は雪女が童子と遊んでいるという言い伝えもある。男性も子どもたちも、雪の夜は気をつけなさいということだろう。

 山本洋子(やまもと・ようこ)は、昭和9年(1934)、東京都生まれ。桂信子の「草苑」、大峯あきらの「晨」同人。「晨」編集長。昭和59年、第2句集『木の花』により第12回現代俳句女流賞、平成23年、第6句集『夏木』により第51回俳人協会賞受賞。共著に『最初の出発』東京四季出版刊、『俳句実作入門講座』角川書店刊、編著『秀句三五〇選』蝸牛社刊など。