第二百十八夜 片山由美子の「落葉掻く」の句

 片山由美子さんの作品に面と向き合うのは、今回が初めてかもしれない。手元にあるのは第2句集『水精』と第4句集『風待月』と第5句集『香雨』と、平成7年刊の対談集『俳句の生まれる場所』である。

 対談集を読み直した。片山由美子さんのアプローチの仕方がソフトであるからなのか、例えば、中村苑子のつい漏らしたような本音の言葉がとても新鮮であった。つまり、私の感じていた苑子俳句の作り方ではなく、もっと自然体であったことを、本著で知ることができた。
 もう一つは、俳壇で華やかさを感じていた片山由美子と由美子俳句は、知的な方であると同時に作品には穏やかさを感じたことであった。

 鑑賞はむつかしいが、紹介させていただこう。
 
  落葉掻く音の箒に変りけり 『香雨』

 虚子の句に〈箒あり即ちとつて落葉掃く〉の句があるように、箒は用がないときには只の棒切れのようなものであり、落葉を掃くときに箒という「役立つもの」となる。片山由美子さんの箒は、もう一つの役目が加わって「落葉掻く音を立てる」箒となった。
 落葉がたくさんあれば乾いた音となり、石段の落葉を掃くときは石と箒の擦る音になる。かつて中国映画で、恋人同士が楽しそうに石段を掃いているシーンを観た。恋人同士の手の動き、音を立てているのは枯葉と箒と石段の見事な三拍子であった。
 下五の「変はりけり」は、音楽家でもある片山由美子が振るタクトに合わせて奏でられた音楽であろうか。
 
 句集『香雨』のあとがきには、「言葉にはならないけはいのようなものを言葉によってただよわせる」。単純化していうと、「言葉にはならないもの/こと」が「言葉になるもの/こと」へ越境していくこと、あるいは両者を往復する、もしくは融合するなにかについて、ということでしょうか。」とあった。
 「けはい」を詠もうとすることは、筆者の私も興味がある。
 
  初雪や積木を三つ積めば家 『香雨』

 この作品は、幼子と積木遊びを考えれば解釈は簡単である。二つの長い積木を離しておく。つぎに三角形の積木を二つの上に置く。「ほーら、お家ができましたよ。」と、家が出来上がる。
 だが、そうではあるまい。初雪の世界がもたらす「なにか」、それが、片山由美子の希求する「けはい」であろう。

  外套のポケットの深きを愛す 『水精』

 この作品は、男性の外套のポケットに違いない。女物のコートよりもずっと深く大きなポケットだ。ある寒い日の夜道、ポケットに手を入れたらどこまでも沈みそうに深くて暖かかった。

 片山由美子(かたやま・ゆみこ)は、昭和27年(1952)、千葉県生まれ。同54年、鷹羽狩行の指導を受け作句を始める。翌55年「狩」入会。平成2年、第5回俳句研究賞、同19年、『俳句を読むということ』(平18)で俳人協会評論賞を受賞。
 句集に、『雨の歌』(昭59)、『水精』(平元)、『天弓』(平7)、『風待月』(平16)。著書に、評論集『現代俳句との対話』(平5)、対談集『俳句の生まれる場所』(平7)、エッセイ集『鳥のように風のように』(平10)入門書『今日から俳句―はじめの一歩から上達まで』(平24)など。「狩」副主宰。