第二百二十夜 小川芋銭の「五月闇」の句

 私が小川芋銭を知ったのは、俳句文学館で見た俳誌「ホトトギス」であった。明治44年から45年(大正元)の一年間は、芋銭の飄逸な河童の表紙絵で飾られており、誌面にも芋銭の挿絵が何枚かちりばめられていた。明治45年1月号には、虚子が芋銭を訪問した折の旅行記「河童の宿を訪ふの記」が掲載されていた。

 茨城県の取手市から、水戸方面へ国道6号線沿をしばらく車で走ると、左手に牛久沼がひらけてくる。周囲がおよそ25キロの沼だ。
 小さな立看板を見落とさないようにくねくね行くと、牛久沼を見おろす高台には、「河童百図」や「祭魚」で有名な日本画家小川芋銭(うせん)の屋敷がある。かつてのアトリエの雲魚亭は、今は小川芋銭記念館として公開されている。屋敷への入口の右手に大きな河童の碑がある。

 明治44年12月12日に、牛久沼の芋銭を訪ねた虚子は、ある画展で芋銭の作品を観て以来、「河童が芋銭か、芋銭が河童か」と直観したほど、芋銭の風貌と実在はしない河童の印象をかさね合わせていたようだ。
 虚子は、牛久沼、河童、芋銭の宿という3つの連想がこわれないように、列車の時刻を遅らせて鎌倉を出発し、黄昏時の到着をめざした。

 虚子と芋銭は、現在のアトリエの雲魚亭ではなく、母屋で酒を酌みかわしながら河童談義をした。廊下から垣間見える沼面は、まるで冥土の国のもののような沈んだ色をたたえていて、沼のしずかさをしみじみ味わいながら、虚子は沼辺の一夜を満喫した。
 「河童の宿を訪ふの記」は、武家出身である芋銭の痩せてぬっとした面差し、河童伝説、鉛をのべたような沼の景、これらが虚子の筆致と描写によって融和されて、まるで墨絵の薄靄の中の出来事のようである。

 俳号は「牛里」であるが、入手した句集は『芋銭子 俳句と書跡』というタイトルであった。没後の刊行であり、編著者の酒井三良子は、弟子と思われる。
 序は、「名利のそと一村翁にすぎない素朴な生涯を過ごされた先生の藝術は我々に何を語り教ゆるでせうか、ここに収録した作品の心を真に徹した人の尊さを、神秘を玩味していただきたいのです、それがこの小冊子の願ふところです。」とあった。
 
 私が、牛久沼の芋銭居を訪ねるようになったのは、虚子をもっと知りたいと思ったことがきっかけであったが、徐々に、雲魚亭で芋銭の絵画や資料、庭から見下ろす牛久沼に魅かれるようになった。
 
 『芋銭子 俳句と書跡』より作品を、紹介させていただこう。

  とうふなめにばけるかつぱや五月闇
  五月雨や月夜に似たり沼明り
  手に掬ふ沼水鳰もぬくからん
  
 一句目、「とうふなめ」は片手に豆腐を持った豆腐小僧という妖怪で、河童が化けているともいう。魑魅魍魎の世界が好きな芋銭らしい句で、五月雨(さみだれ)の降る頃の暗さの中で、いかにもありそうだ。
 二句目、五月雨の暗さは昼間もあるが、空の日が沼面に映れば波に輝く月夜のような沼明りとなる。
 三句目、芋銭居を下ってゆくと沼の端に出る。虚子が訪れた翌朝もこの道を通った。沼水を掬ってみたら手に温かった。泳いでいる鳰も春を感じて潜っているのだろう。

 小川芋銭(おがわ・うせん)は、慶応4年(1868)- 昭和13年(1938)、江戸の牛久藩邸で生まれる。19世紀から20世紀前半にかけて活躍した日本画家。小川家は武家で、親は常陸国牛久藩の大目付であったが、廃藩置県により現在の茨城県牛久市城中町で農家となる。最初は洋画を学び、後に本格的な日本画を目指し、川端龍子らと珊瑚会を結成。横山大観に認められ、日本美術院同人となる。水辺の生き物や魑魅魍魎への関心も高く、特に河童の絵を多く残したことから「河童の芋銭」と呼ばれる。画号の「芋銭」は、「自分の絵が芋を買うくらいの銭(金)になれば」という思いによる。