第二百二十一夜 寺井谷子の「蛍の夜」の句

 寺井谷子さんの作品で一番先に覚えたのが、次に紹介する「蛍の夜」である。俳句を始めて、俳句を詠むときは必ず「季題」を自分の目で見るようにと指導された。というよりも、次の句会までに「蛍」の兼題がでると、矢も盾もたまらずに見に行きたくなる。当時は、東京住まいだったので、結局は、父と娘を誘って「椿山荘」のお食事付きの蛍の会へ出かけた。広い庭園に随分多くの蛍を放したのであろう。見事な乱舞であった。
 きっと今頃は、日本中で蛍が飛んでいることだろう。

 今宵は、螢の作品を見てみることにしよう。

  人体の自在に曲がる螢の夜 『笑窪』

 寺井谷子さんのではないのだが、中村苑子のエッセイに、凄まじいまでの蛍の夜を見た。福山の友人に誘われて平家谷と呼ばれる山寺に行った夜更けのことだ。激しい雨音に目覚めた苑子が、暫くして障子を開けると、目の前に幾千もの蛍の青い火が点滅していた。青い火の群は何層にも重なって、この世のものとも思えぬ妖しく哀しい乱舞を繰り返していたという。
 中村苑子は夫の高柳重信を亡くされた直後ということもあろうが、ここの平家蛍の中に夫の魂が交じっているように感じて、思わず両手を伸ばした。〈忽然と黄泉の蛍が手にありぬ〉〈死なば死蛍生きてゐしかば火の蛍〉と詠んだ。
 
 掲句の作者の寺井谷子さんが、もしこの庭に降り立ったならば、あっという間に蛍は身体中にはりついて、金属製のロボットのように蛍色の人体となって、自在に曲がったことだろう。

 蛍見は、いつ出かけても見ることができるわけではない。平家蛍と源氏蛍の飛ぶ時期も異なるし、5、6月の蒸し暑い夜に飛ぶことが多いとか、水の流れがきれいなこととか、地域によって蛍を育てている場所もあるので、ネットで調べ、地元の人に訊いておくとよいだろう。
 折角出かけても、ぽつんぽつんと1匹、2匹という日もあるが、それはそれで素敵な蛍の夜になると思う。
 
 もう一句、紹介させていただく。

  まぼろしの蝶生む夜の輪転機 

 印刷物の輪転機が夜を徹して回っている。新聞だろうか、書籍だろうか、見ているそばから次々蝶が生まれ出るようだ。「まぼろしの蝶」というのは、人々へ飛んでゆく文字のことかもしれない。この作品は、明るささと未来への詩情が届けばいいのだと思う。
 寺井谷子さんは、戦前の新興俳句の俳人・横山白虹を父に、横山房子を母に持つ。平成29年に山本健吉文学賞を受賞した理由の一つが、「新興俳句は戦後俳句の模索に中心に位置して、その純度とエネルギーを保証して来たが、これからも益々、 俳句の質と美の向上のために尽くしてゆくだろう。寺井谷子の存在の大きさも更に膨らむこと間違いない。」と言ったのは推薦者の金子兜太で、寺井谷子の力強い詩精神を讃えた。
 
 寺井谷子(てらい・たにこ)は、昭和19年(1944)、福岡県小倉市(現・北九州市)の生まれ。俳人の横山白虹・房子の四女として、10歳より俳句を始める。明治大学文学部演劇学専攻卒。昭和41年より父の「自鳴鐘」の編集に携わる。平成4年、第1句集『笑窪』で第三九回現代俳句協会賞受賞。同年、北九州市民文化賞受賞。平成28年、第7回桂信子賞受賞。平成29年、山本健吉文学賞受賞。現在、父、母の後に「自鳴鐘」を継承し、主宰者。句集に『笑窪』『以為』『街・物語』『母の家』など。