第二百二十五夜 宮部寸七翁の「むかご」の句

 宮部寸七翁を最初に知ったのは、田辺聖子著の『花衣ぬぐやまつわる・・』の中の杉田久女が熊本在住の中村汀女に会いに行く場面であり、句集『中村汀女 星野立子集』の三橋敏雄の解説の中であり、竹下しづの女の文章の中であった。
 その頃はまだ、俳号「寸七翁」を「すなお」と読むことができずにいた。
 熊本にいた頃に俳句を始めた汀女は「ホトトギス」に投句していたが、一時、宮部寸七翁の指導を受けていた。
 
 大正15年に39歳で亡くなった寸七翁は、大正5年に結核を発病した。俳句を始めたのはその頃で、「ホトトギス」に投句し、高浜虚子に師事するようになった。
 10年間という短い句業ではあるが、没後の昭和4年に、吉岡禅寺洞による句集が編纂された。師匠である高浜虚子は序文に、「かくの如く佳作の多い一家の集は、きわめて稀に見るところである」と称賛している。
 
 今宵は、この『寸七翁句集』から、作品を紹介させていただこう。
 
  花曇り人を渡して川平ら

 大正13年、宮部寸七翁を中心に俳誌発刊の動きがあったという。それが熊本県の俳誌、現在の「阿蘇」であるが、実際に発刊されたのは寸七翁没後の、昭和4年のことで、田邊夕陽斜(たなべせきようしゃ)が主宰であり発行人であった。
 この作品は、平成27年刊行の『俳誌「阿蘇」合同句集』の終りに創刊時の人々の一人として紹介された代表作品のひとつ。「阿蘇」発行に向けて共に準備をしていた頃の作品であろうか、穏やかな句調である。
 花の時期のうっすらとした曇り空の下、川には人を乗せた舟がゆったりと進んでいる。下五の「川平ら」から、桜の花も水の流れも、寸七翁さんの心も平らかであることが伝わってくる。
 
  二つづつふぐりさがりのむかごかな

 私は、俳句を始めてから知った季題は多い。野や山へ行くことも多くなり、今まで目に止まらなかったものが目に止まるようになった。「むかご」のその一つで、「零余子」の漢字だって読めるようになっている。講談社版『カラー図説 日本大歳時記』の「零余子」の項目には、確かに「二つづつふぐりさがりの」零余子の写真と例句として寸七翁の作品が載っていた。まさか「ふぐり」と詠むとは、だが、この作品はユーモラスで愉しい。

  血を吐けば現も夢も冴え返る 

 この作品は、大正15年1月30日に亡くなった寸七翁が、最後に詠んだ辞世の句と言われる。春を待っている頃であったが、喀血を繰り返す度に現実の辛さも夢の中の辛さも行ったりきたりの繰り返しの日々である、今死ぬかも知れないし、もう少し生きるかも知れない、そのような気持ちから春の季題の「冴え返る」を選んで詠んだのではないだろうか。
 弟子の死を惜しんで、高浜虚子は〈寒梅にホ句の佛の上座たり〉という追悼の一句を贈っている。「ホ句」は「俳句」のこと。

 宮部寸七翁(みやべ・すなお)は、明治20年(1887)- 大正15年(1926)、熊本市の生まれ。日本のジャーナリスト、俳人。熊本農業学校、早稲田大学政治経済学部卒業。九州新聞(現・熊本日日新聞)に入社し、記者として活躍するが、同社のストライキ事件に巻き込まれて退社。博多毎日新聞の編集長となる。熊本出身の女流俳人中村汀女に句作指導を行った。