第二百二十六夜 岩岡中正の「春の海」の句

 岩岡中正さんの、結社「阿蘇」も俳句の背景も、同じ九州人だからかもしれないが、長崎県生まれの夫と大分県生まれの私にとって、どこかしら懐かしさを感じながら拝見していた。
 もう一つは、岩岡中正さんの著書『虚子と現代』にある「深見けん二―虚子の継承」で、結社「花鳥来」の会員の私たちがはるかに及ばない〈けん二論〉を見せてくれたことである。
 
 数年前、俳句のことが分からなくなったとき、けん二先生は「虚子をお読みなさい」とアドバイスをくださったことがあった。
 今、〈けん二論〉の初めの方に書かれた、「虚子は過去の人ではない。この「現今の今」を体現している作家の一人から虚子を見ることは有効な方法である。」は、いきなり答えが見つかったようであった。
 「花鳥来」の私も、深見けん二の俳句の鑑賞を何回も試みているが、いつも捉えきれないもどかしさが残っている。また挑戦したいと思っている。

 今宵は、手元にある2句集『春雪』と『夏薊』から紹介させていただこう。

  春の海かく碧ければ殉教す 『春雪』
  
 長崎市に3年住み、活水高校で教師をしていた頃、私は隠れキリシタンのことも改めて身近に知った。その後、夫と帰郷した折に、隠れキリシタンのことを知りたくて、長崎時代の友人に案内してもらって、長崎半島にある小さな教会、外海にある隠れ家などを見た。どこも山奥だが、どこからも海が見えて、空の碧と混ざり合っているようであった。
 〈踏絵ふまざれば獄門ふめば地獄〉の作品は、遠藤周作の『沈黙』を思い出す。たしか、最後の場面で神は、踏絵を踏みまどう宣教師ロドリゴに「踏みなさい」と告げた。「ふめば地獄」ではあるが、それでも神は「生きよ」と告げた。

  文飾をしてはゐぬかと亀鳴けり 『春雪』

 俳句をつくるとき、自分の本当のこと、見たままのことではなくて、余計な言葉を足してみたり、自分らしからぬ言い回しをすることがある。投句してみると、案の定、深見けん二先生に見抜かれてしまう。鳴くとも鳴いても聞こえぬともいう亀よ、声に出して鳴いてくれればいいのに。

  梅雨の犬眉のあたりが哲学者 『春雪』

 犬は、鼻筋がすっとして高く、眉毛もある。横顔など凛として哲学者にも見えそうだ。梅雨時など散歩にも連れて行ってもらえないから、室内で同じ格好でずっと目を瞑っている。「眉のあたりが」と具体的に描写しているので、もしかしたらリトリバー系の大型犬かもしれない。

  寸七翁忌や古き恋みな美しき 『夏薊』

 「寸七翁忌」は、宮部寸七翁(みやべすなお)のこと。若き日、まだ結婚前の中村汀女の句作の指導をしていた時期があったという。輝く美貌の汀女であるから、惹かれる恋心もあったであろう。「古き恋」は遠い昔を思い出せばみな美しい思い出になっている。

岩岡中正(いわおか・なかまさ)は、昭和23年(1948)、熊本市生まれ。九州大学法学部を経て同大学院を修了、熊本大学名誉教授。 俳句は20歳よりはじめ、「ホトトギス」「阿蘇」に投句、稲畑汀子、藤崎ひさをに師事。昭和37年、「ホトトギス」同人。平成7年、朝日俳壇賞受賞。平成11年より「阿蘇」主宰。平成20年、『春雪』で第50回熊日文学賞受賞。平成23年、『虚子と現代』で第11回山本健吉文学賞評論部門受賞。句集に『春雪』『夏薊』。著書に『詩の政治学-イギリス・ロマン主義政治思想研究』『ロマン主義から石牟礼道子へ-近代批判と共同性の回復』『転換期の俳句と思想』『虚子と現代』ほか。