第二百三十夜 鍵和田秞子の「炎天」の句

 鍵和田秞子先生に初めてお会いしたのは、平成12年12月9日のBS放送「俳句王国」へ出演したときで、その日の「俳句王国」の主宰であった。本番は翌日だが、前日からNHK松山で、顔合わせ、リハーサル、懇談会があった。隣合わせとなり、私は所属している結社誌「花鳥来」を差し上げて自己紹介をさせて頂いた。
 
 今宵は、私なりに、次の有名な作品を考えてみよう。
 
  炎天こそすなはち永遠の草田男忌 『飛鳥』
  
 師の中村草田男は、俳句の「芸」としての要素と「文学」としての全人的な表現を志向した俳人であった。高浜虚子晩年の弟子深見けん二に師事している私は、〈秋の航一大紺円盤の中〉など「ホトトギス」時代の作品が大好きである。虚子が亡くなるまで、毎年、正月二日には挨拶に訪れていた草田男は、自分の世界に挑むために、炎天へ飛び込んだ俳人である。
 この作品は、師草田男の生き様が見事に詠まれていて、跡を継がんとする弟子として迫力ある追悼句である。
 
  未来図は直線多し早稲の花 『未来図』

 「未来図」は、36年間主宰を務めた鍵和田秞子の主宰誌で、描いている未来図は設計図のように直線である。季語として配合した「早稲の花」は、稔りの頃の稲穂は垂れているが、8月に、ほんの短い間、白い小さな花を付ける早稲は上を向いて直線である。
 まっすぐに、俳誌「未来図の弟子たちが、よい作品を作り、よい作家に育つように、という願いが込められた主宰としての作品である。

  火は祷り阿蘇の末黒野はるけしや 『火は祷り』

 『火は祷り』の「あとがき」に、「草田男先生は、文芸の〈絶対〉を生涯かけて求め続けた。私はとても先生のようにはいかないが、俳諧の真実を大事にして一筋の「風雅の誠」の道を歩み続けたいと思う。老いの身にとって、まことに心許ない歩みではなるが、俳句の新しみを探り、文芸の世界の無限の天空を見つめてゆきたい。」と、お書きになった。
 広大な阿蘇連山の、野焼も、焼かれた後の末黒野も、主役となる「火」は、山を美しく蘇生するための「祷り」であるように感じられる。俳人にとっての「風雅の誠」への一筋の道もまた「はるけしや」であろう。
 人生最後となった第10句集でもあり、もっと意味を見つけて、考えて見たい作品である。

 鍵和田秞子(かぎわだ・ゆうこ)は、昭和7年(1932)- 令和2年(2020)、神奈川県秦野生まれ。昭和29年、お茶の水女子大学を卒業。大学在学中、井本農一のもとで俳文学を学ぶとともに、村山古郷の「たちばな」に入会し句作を開始。大学卒業後は教師として勤める。また金尾梅の門の「季節」に入会。昭和38年、中村草田男主宰の「萬緑」に入会。のち萬緑新人賞、萬緑賞を受賞。昭和52年、第一句集『未来図』により第一回俳人協会新人賞を受賞。この年に教師を辞す。昭和59年、草田男の死を経て「未来図」を創刊、主宰。平成17年第七句集『胡蝶』により第45回俳人協会賞受賞。平成27年、第九句集『濤無限』により第56回毎日芸術賞受賞。令和2年、第十句集『火は禱り』により第35回詩歌文学館賞受賞。

 鍵和田先生の作品を「千夜一夜」で紹介させて頂こうとしていた間の、6月11日に88歳で亡くなられたことを人づてにお聞きした。つい2周間ほど前であった。謹んでご冥福をお祈りいたします。