第二百三十一夜 安東次男の「心太」の句

 安東次男は、加藤楸邨の「寒雷」の草創期から投句をしているが、詩人として、芭蕉や蕪村や一茶を研究した評論家として、またフランス文学の翻訳家としても活躍していて、再び俳句へ戻るのは、平成2年の頃である。「寒雷」では、傍から眺めると、主宰加藤楸邨の下で、弟子たちは自由に羽ばたいるように感じている。
 平成9年刊行の晩年の句集『流』により、安東次男は、第12回詩歌文学館賞を受賞した。
 
 今宵は、『花筧後』と『流』の作品から紹介をしてみよう。

  むらぎもの影こそ見えね心太 『花筧後』

 「心太」を何故トコロテンと呼ぶか、語源辞典で調べると、「心太(ココロブト)」だったとか、元々は「心天」と書いていたとある。やがて「ココロフト」「「ココロタイ」から「トコロテン」と呼ぶようになったなどの説がある。
 この作品は、「むらぎもの」が心に掛かる枕詞であることに気づくと、面白い。透きとおっていて影こそ見えないが、「心太」には確かに「心」があるということが、枕詞「むらぎもの」によって明かされたからだ。

  途方にも暮れ方はあり花芒
  
 「途方に暮れる」の「途方」とは手段・手だてのこと。どうしたらよいか手段が思いつかなくて迷いながら暮れてしまうこともあるが、「途方にも暮れ方はあり」という表現から、何となく手段が仄かに見えて暮れてゆくこともあるという抜け道も感じられる。それは、季語「花芒」が置かれたことにあるだろう。
 私は、「芒の花」を初めて見たときの感動を思い出しているが、とても小さな花である。「はなすすき」は枕詞で、「ほに出づ」「ほのか」に掛かるという。このように解釈してみた。

 俳句においては古典趣味であったと言われている安東次男ならではの作品だと思った。

  手をついて見よとや露の石ぼとけ

 野路で石仏に出合った。近づいてよく見ると、石仏は朝露を浴びている。一晩中、否、ここに置かれてから暑い日も寒い日もこうして半眼のまま何年も、ずっとこうして佇っているのだ。
 石仏は、「よく見てごらん。手をついて見てごらん。自分の目でしっかり見てごらん。」と、言っているように感じた。
 そう思って石仏を見るのは、作者の心である。
 
 句集『流』の栞は、『清貧の思想』の著者でもある作家の中野孝次が書いている。
 「見るおのれの目を信ずる以外にないのである。自分で手をついてしっかりと見るしかないのである。ほかのことは何もならわなかったけれども、この一事を教えたことによって安東次男は疑いもなくわたしの古典の師匠になったのだった。」

 安東次男(あんどう・つぐお)は、大正8年(1919)-平成14年(2002)、岡山県津山市生まれ。俳人、詩人、評論家、翻訳家。俳号は流火艸堂。。昭和16年頃より「寒雷」に投句、加藤楸邨に俳句を学ぶ。昭和17年、東京帝国大学経済学部経済学科を卒業。海軍に志願し、敗戦時は、海軍主計大尉。戦後、都立桜町高校社会科教諭、國學院大學フランス語講師など。昭和24年、詩作に転じ、抵抗派詩人として注目され始める。その後平成2年頃より「寒雷」に再び俳句の発表する。平成9年、句集『流』で第12回詩歌文学館賞受賞。平成13年頃から、持病の肺気腫と気管支喘息が悪化。