第二百三十二夜 黒田杏子の「花巡る」の句

 黒田杏子先生は、山口青邨の弟子。昭和63年に青邨が亡くなられた後、「夏草」会員は、「天為」「藍生」「屋根」「花鳥来」の4つの結社に分かれた。しかし兄妹結社という思いを、私の所属する深見けん二の「花鳥来」の誰もがそうした思いを持っている。
 虚子は「客観写生」といい、青邨は「観察(オブザベーション)」といい、杏子さんは「季語の現場に立つ」という。それは作句の行動理念である。
 
 私の手元に今、『黒田杏子歳時記』がある。『木の椅子』『木の扉』『一木一草』までの30年間を旅を重ね、季語の現場に立つと決め、わが身に季語の「言霊」を浴びたという。
 『黒田杏子歳時記』の序には、「現地へ出かけてゆくことは即ちその場に存在する地霊に出合うこと」であり、「地霊は実際にその地を踏んだ足の裏から全身にのぼってくる」と、あった。
 
 今宵は、そうした黒田杏子俳句を紹介させていただこう。
 
  花巡る一生のわれをなつかしみ 『花下草上』
  
 博報堂での雑誌のインタビューの仕事を続け、主婦業を続け、「藍生」の主宰を続けながら、しかも、桜の花の盛りは5日間ほどの短さである。
 日本中の、沖縄から北海道までの桜の名木を見尽くすには、30年近く要したというが、計画を立て、実行することは大変だったと思う。
 杏子さんは、花を巡り花の下に佇つことを、〈花に問へ奥千本の花に問へ〉の如く、花の地霊との出合いを、生きている間ずっと続けていこうと決めた。
 「一生(ひとよ)のわれをなつかしみ」とは、「われ」を慕わしく思い、手放したくない、という気持ちであろう。
 どこか、己自身を俯瞰して眺めているようでもある。
  
  身の奥の鈴鳴りいづるさくらかな 『花下草上』

 花の散る樹下に佇んでいると、わが身の奥の鈴が鳴り出すという。桜と相対しているときの杏子さんは、桜の霊(=魂)とも相対しているのだろう。「身の奥の鈴鳴りいづる」とは、桜の魂と杏子さんの魂の、波長が寄り添った不思議な瞬間であるのかもしれない。
 
  能面のくだけて月の港かな 『一木一草』

 この作品を最初に見たとき、静岡県三保の松原で行われた「三保羽衣薪能」を思い出した。2年続けて通ったが、そこで黒田杏子先生をお見かけした。たしか開会のご挨拶をされていた。
 私にも、薪能や能楽堂に通い詰めていた10年ほどがあったが、時折、杏子さんをお見かけした。おかっぱ頭で、大塚末子デザインの〈もんぺルックス〉、黒いブーツ姿はどこからでも気づくが、ある時は、白洲正子さんの車椅子の押していらした。

 実際は、三保の松原ではなく宮崎県松島へ吟行に出かけた折の当日の句会で生まれた作品だそうである。「能面のくだけて」は、松島で眺めた月が海面に映った姿であろう。紺碧の空の月が海面に届いた瞬間、くだけたのは海面に映った月光であるが、杏子さんは、「能面のくだけて」と叙して、月光のくだける激しさを美と捉えた。
 
  ガンジスに身を沈めたる初日かな 『一木一草』

 インドの旅も、この時点で既に3回目だ。一回目では〈人を焼くほのほがたたく冬の河〉の如く、ガンジス河畔の火葬場で、井桁に組まれた薪の上で荼毘に付されてゆく人の炎を遠望された。こうした作品を知って、その後に、〈ガンジスに身を沈めたる初日かな〉の作品を知った。ガンジス河がインド人にとっての聖なる河であることが深々と伝わるようであった。

 黒田杏子(くろだ・ももこ)は、昭和13年(1938)東京市本郷生まれ。昭和19年、栃木県に疎開、高校卒業まで栃木県内で過ごす。東京女子大学入学と同時に俳句研究会「白塔会」に入り、山口青邨の指導を受け、青邨主宰の「夏草」に入会。同大学文理学部心理学科卒業後、博報堂に入社。テレビ、ラジオ局プランナー、雑誌『広告』編集長などを務め、瀬戸内寂聴、梅原猛、山口昌男など多数の著名文化人と親交を持つ。この間、10年ほど作句を中断。昭和45年、青邨に再入門。青邨没後、平成2年、俳誌「藍生」(あおい)を創刊主宰。日本経済新聞俳壇選者。