第二百三十六夜 林 翔の「初日」の句

 林翔(はやし・しょう)は、能村登四郎と同じ國學院大學の同窓であり、卒業後に勤務した市川高等学校も一緒、俳句の歩みも水原秋櫻子の「馬酔木」から始まり、登四郎が「沖」を創刊してからは登四郎が亡くなるまで70年近く俳句の道を歩みつづけた同志である。
 林翔の俳句の信条は、「俳句は、自分の心と対象物とがぶつかり合った瞬間に生まれる感動が、有季定型の短詩となったもの」であるという。もしかしたら常に考えていること、繰り返し見ていることの中で、ある時、ある瞬間にふっと17文字の俳句の形となるような気がしている。
 
 今宵は、心がぶつかった「瞬」を感じながら林翔氏の作品をみてゆこう。
 
  光年の中の瞬の身初日燃ゆ 『光年』 

 私も、毎年のように「初日」を真っ向に見ることが新年の楽しみであるが、そうなんだ、身に受けているのは「光年の中の瞬」の光なのだ。光年とは、天文学で用いられる距離の単位で、光が一年間に進む距離のことで、およそ約9.5兆キロメートルという思考を越えた世界である。そうした悠久の一瞬を、今、わが身が受け止めている。
 「瞬」は「またたく間」ではあるが、時はつながっている。

  雪女消え人型のうすあかり 『光年』

 雪深い地方の伝説の中に現れるという雪女である。雪女は、いるともいないとも言われるが、雪の夜道をゆく恐怖から想像の中に生まれたものであろう。怖いなと思いながら雪道をゆくと目の前にぼうっと人影が見えた。しばらくゆくと、雪女はいなくなっていて、雪の降る遠くのうすあかりが人型に見えたのは、電信柱だったりする。
 「人型」という具体的な人間の形を思わせる言葉を詠み込んだことによって、雪女が、あたかもその場に居るかのような錯覚を起こさせる働きとなった。
 
  端居してこの身このままこはれもの 『林翔の100句を読む』

 たとえば夏、ご高齢のお祖父ちゃんやお祖母ちゃんが、縁側で涼んでいることがあるが、座り込んだまま何時までも動こうとしないことがある。
 座り込んだご本人も、立ち上がりたくないなあ、めんどうだなあ、と思っていたりする。そんな時、わが身を「この身このままこはれもの」と、思うことがあるだろう。
 大抵は、娘とか嫁が頃合いよくやってきて、「そろそろお茶にしましょうよ」と声を掛けてくれる。その言葉ではっと我に返る。

 林翔(はやし・しょう)は、大正3年(1914)- 平成21年(2009)、長野県長野市生まれ。國學院大學を卒業。大学在学中に能村登四郎と知り合う。昭和14年より旧制私立市川中学(現・市川高等学校)に勤務。昭和15年、水原秋櫻子の「馬酔木」に入門、昭和25年、登四郎とともに「馬酔木」同人。昭和45年、登四郎が「沖」を創刊し、編集長を務め後に副主宰。平成13年、登四郎が息子の能村研三に「沖」主宰を譲ってのちは同誌の最高顧問となった。
 句集に『和紙』『寸前』『石笛』『幻化』『春菩薩』『あるがまま』『光年』。第一句集『和紙』で第10回俳人協会賞、第7句集『光年』で第20回詩歌文学館賞受賞。平成21年、膵臓癌により死去。95歳。