第二百三十九夜 加藤郁乎の「ぎんなん」の句

 前夜に続いて、私の読む力を試されそうな難解な俳人を選んでしまった。
 蝸牛社刊『秀句三五〇選 夢』で見つけた作品は〈昼顔の見えるひるすぎぽるとがる〉である。解釈をしようとするとうーんと考えるが、漢字とひらがなとのバランス、韻を踏んでいて(ここでは「h」)、調べがよく、心にすっと入ってきた。
 
 今宵は、加藤郁乎の作品を楽しんでみよう。

  切株やあるくぎんなんぎんのよる 『球體感覺』 

 想像の膨らむ世界である。切株の側に落ちていたぎんなんの実が、翌日にはずっと離れたところに移動している。作者は風のせいにはせず、「ぎんなんは歩いたんだ」と想像する。下五の「ぎんのよる」とは、銀色の月光の下で輝く銀杏黄葉の中の出来事のように思う。
  
  花に花ふれぬ二つの句を考へ 『球體感覺』

 桜が散っている中に花びらと花びらが触れ合っている花びらを見た。その光景を眺めながら、俳句を二句考えた。
 「花に花ふれぬ」と「二つの句を考へ」の二句一章と感じたので、このような句意としてみたのだが、さて、この句はこのように切っていいのだろうか。

  とりめのぶうめらんこりい子供屋のコリドン 『形而情學』

 言葉は複雑に絡み合っている。①とりめのぶうめらん、②めらんこりい、③子供屋、④コリドンの4つは見つけることができた。
 ①は、「ぶうめらん=ブーメラン」は、狩猟に用いた木製の投具だが「とりめの=鳥目の」となると、夜目に役立たない、投げても戻ってくるブーメランだろう。
 ③の「子供屋」は江戸時代にあった男色の宿。④の「コリドン」はフランスの作家アンドレ・ジイドの小説『コリドン』で、ジイド自身の同性愛体験を書いたもの。
 このように分解してゆくと、③の「めらんこりい」は「とりめのぶーめらん」と「子供屋のコリドン」の2つの事象が、メランコリー(=気分が重苦しく憂鬱)である、という句意になる。

 言葉の面白さと複雑な絡みに惹かれて調べていったが、驚く内容であった。こうした非具象が「形而上学」であろうか。

  ゆるぎなき五七五や秋の風 『江戸櫻』

 加藤郁乎の作品は、一見すると文字数が多くて破調のように見える。だが、口に出してゆくと不思議と五七五の調べに嵌っていることがわかる。意味を考え、音を考え、その上で意味を重複させている。

  俳諧道五十三次蝸牛 『初昔』

 江戸時代から続いている俳諧道も、また東海道五十三次のごとく長い旅路であるが、俳諧道を歩み始めた人たちは、たとえ、蝸牛のような歩みであろうとも止まることはない。

 加藤郁乎(かとう・いくや)は、昭和4年(1929)-平成24年(2012)、東京生まれ。早稲田大学文学部卒。詩人、俳人、俳諧評論家。父加藤紫舟の主宰する「黎明」を経て、昭和30年代以降、「俳句評論」「縄」「ユニコーン」など前衛俳句誌に参加。詩は、吉田一穂に師事し、西脇順三郎に傾倒。
 平成10年、自身の単独選考による加藤郁乎賞を創設、後進の育成にも力を注いだ。平成13年、『加藤郁乎俳句集成』により二十一世紀えひめ俳句賞富澤赤黄男賞受賞。平成17年、『市井風流――俳林随筆』により第5回山本健吉文学賞評論部門受賞。平成23年、句集『晩節』により第11回山本健吉文学賞俳句部門受賞。
 平成24年5月16日に心不全で死去。83歳没。