第二百四十夜 渡辺白泉の「戦争」の句

 平成23年、あらきみほ著『図説・俳句』は、深見けん二推薦として出版した。先生は、「公平に、俯瞰的に、子規以後の現代俳句の流れをかくことに成功した書として、この本を推薦いたします。」と、序文に書いてくださった。
 筆者の私は、深見けん二主宰の「花鳥来」で学んでいるが、有り難いことに、けん二先生は、虚子の流れだけでなく俳人論や俳句鑑賞を広く書かせてくださっていた。『図説・俳句』を纏めてみようと思ったことも、そうした下地があったからである。

 昭和6年、水原秋桜子の「ホトトギス」の離脱がきっかけとなって新興俳句運動が起こった。自然を詠むだけでなく心を詠みたい、さらに、日中戦争から第二次世界大戦へと向かう中で、これ迄の季題だけでなく、誰もが巻き込まれた「戦争」を季題の代わりとして詠もうという動きが生まれた。「戦争」は季題ではないので、無季俳句とか超季俳句といわれる。
 戦争を詠んだ作品には、①前線俳句 長谷川素逝の〈馬ゆかず雪はおもてをたゝくなり〉、②銃後俳句 渡辺白泉の〈戦争が廊下の奥に立つてゐた〉、③戦火想望俳句 西東三鬼の〈兵隊がゆくまつ黒い汽車に乗り〉などがある。
 
 今宵は、時代をアイロニカルに捉えた渡辺白泉の作品をみてみよう。

  戦争が廊下の奥に立つてゐた

 戦後生まれの私には、映画でしか見たことがない光景だが、戦争とは、軍部の高官たちが奥の会議室に集まって秘密の軍事会議で決定するものであるという。戦争が廊下の奥に立つてゐたという表現に、まず理由なき恐怖心を覚えるとともに、人間として、「嫌だ、ノー」と、言える時代であってほしいと思った。

  鶏たちにカンナは見えぬかもしれぬ

 庭には見事な真赤なカンナが咲いている。鶏は真赤なカンナのような鶏冠(とさか)を振りながら、花のカンナを見ているかもしれないが、自分の頭の上にも、カンナの花のような鶏冠が付いているとは知らないだろう。己のことは案外に気づかないものだ。
 季題は「カンナ」。鶏(にわとり)は、ここでは(とり)と読む。

  玉音を理解せし者前に出よ

 戦争では、上官から「理解できぬ者は一歩前に出よ」と叱られる。しかしこの作品は、「玉音を理解せし者」である。玉音は天皇の声のこと、理解したのであれば、軍人から叱られることはない。
 昭和20年8月15日、玉音とは言うけれど、もはや戦争は終わっている、いや、敗戦したのだ。「玉音」も「理解せし者」も、全てが一体誰のせいでこうなったのだ、と言わんばかりの作者の怒号が聞こえてきそうである。
 この句は、「終戦忌」として考えて無季ではないだろう。

  おらは此のしつぽのとれた蜥蜴づら

 淋しさもあるが戦後となってホッとした心持ちも感じられる。渡辺白泉は、新興俳句の新鋭として西東三鬼、富沢赤黄男とともに走り抜いた作家であったが、戦後は俳句界から離れていたという。
 掲句は、そんな自分を「おれはもうしっぽのとれた蜥蜴だよ」と、自らの尻尾を切って逃げる蜥蜴になぞらえたが、自らを俳人ととして決して諦めてはいないのが渡辺白泉だ。
 若き日に〈街灯は夜霧にぬれるためにある〉や〈松の花かくれてきみと暮らす夢〉など叙情的な作品を詠んでいた。

 渡辺白泉(わたなべ・はくせん)は、大正2年(1913)- 昭和44年(1969)、東京青山生まれ。慶應義塾大学経済学部卒。昭和8年、水原秋桜子の「馬酔木」、翌年に「句と評論」に投句、西東三鬼と親交を結び、新興俳句の新鋭として登場。昭和14年、「京大俳句」に参加。昭和15年、「京大俳句」を中心に起こった弾圧事件(新興俳句弾圧事件)に連座、執筆活動停止を命じられ起訴猶予となる。戦後は、高校教師となり、俳壇から離れ孤心の滲む作品を詠んだ。
 没後、職場の学校の重要書類用ロッカーより自筆の句稿本が発見され、門人であった三橋敏雄らの尽力で『渡辺白泉句集』が刊行。