第二百四十二夜 千葉皓史の「七夕竹」の句

 俳句では「七夕」は秋の季題であるが、子どもたちは、幼稚園や学校で教わるからか7月7日に七夕飾りをする。我が家ではもっと小さい頃から、こうした行事の度に、やんちゃな年子が夢中になれる時間を作った。つまり、テーブルの上で折り紙を短冊に切っては願い事を書いたり、折り紙で輪を作り、つなげて七夕竹の飾りにする。
 親としては一日がかりではあるが、その間の二人の子の静かな時間は何ものにも替えがたい。

 千葉皓史さんの作品は、子どもを詠んだものが多いという。

  七夕竹畳の上に出来上る 『郊外』

 この作品は、蝸牛社刊『気象歳時記』の中で、気象予報士・平沼洋司さんの書いた文章に合わせて、編集の私が俳句を選んだものである。折角なのでまず、七夕の文章を紹介しよう。
 
 七夕をなぜ「たなばた」と読むか。「たな」は棚。「はた」は機のことで、昔「たなばた」は盆行事の一環であり、先祖の霊を迎えて乙女が機を織る行事があり、その乙女を棚機女(たなばため)といった。
 それが七月七日の夕方であったために「七夕」の字を当てたとのことだ。万葉集では「たなばた」だが、新古今和歌集では「七夕」となっており、「七夕」の字は平安時代にできたようだ。
 
 さて、掲句は飾り物の一つ一つが出来上がり、短冊に願い事も書き終えて、七夕竹に結わえ付けたところであろう。一眺めしたら、お父さんが星の見える庭かベランダに立ててくれる。
 子どもたちが、一生懸命に願い事を考えて、幼い文字で自分で書き、家族みんなで七夕飾りを作ることは素敵だ。

  裸子がわれの裸をよろこべり 『郊外』

 親と子が一緒に水遊びをしていて、水着を脱いで着替えようというときのことだろう。お父さんは子どもの水着を脱がせて子は裸子になった。ちょっと恥ずかしそう。次にお父さんが裸になった。すると、裸同士となった父を見た子は大喜びだ。シャワーを浴びる父と子のじつにうれしそうなこと。

  いちにちのところどころの青芒 『郊外』以後

 青々とした真夏の青芒は、勢いのある若々しさが眼目の季題である。「いちにちのところどころの」が、具体的でないようであって、じつは細かな描写である。
 作者は外へ出るとまず青芒に目が行った。次の角を曲がるとまた青芒に出合った。広い野原では青芒の一叢も見かけた。
 そういえば今日のいちにちは、何度も目にとまった青芒であったなあ、という不思議な感じをもった。

 千葉皓史(ちば・こうし)は、昭和22年(1947 – )は、俳人、篆刻家、デザイナー。俳号は「こうし」。東京都生まれ、早稲田大学卒業。昭和51年、「泉」に入会し、石田勝彦、綾部仁喜に師事。平成元年、大木あまり、長谷川櫂とともに「夏至」創刊に参加。平成3年、第1句集『郊外』により第15回俳人協会新人賞を受賞。泉」「夏至」同人を経て現在は結社無所属。俳人協会会員。また篆刻を菅原石廬に学び、日展篆刻部入選、読売書法展篆刻部秀逸などを受けている。