第二百四十四夜 鈴木しづ子「夏みかん」の句

 私が、小学校から中学校の初めの頃、昭和35年くらいまでであったと思うが、日曜日は中野にある絵画教室に通っていた。中央線に乗ると八王子にはアメリカ軍の基地があるからか、普段は見かけない黒人兵がいた。手の甲の黒さと手のひらの赤さの不思議な色を、眺めていたことを思い出している。黒人の脇にいる日本女性の洋装は、子どもから見ても独特で目を引いた。今から思うと、「ぱんぱん」と言われる女性であった。

 鈴木しづ子の俳句は、後年、私が俳句を始めるようになってから、父の書棚から興味のままに読み漁った結城昌治の『俳句つれづれ草-昭和史ノート』の中で、出合っていた。現代俳句の中でも第二次世界大戦以前の、私の生まれる前後のことが歴史とともに俳句があるところが読んでいて楽しい書であった。
 令和の時代になって、いまさら「純潔」の語が俳句に詠まれているからと驚くことはないが、当時は、相当に眉をひそめられたようである。
 
 今宵は、そうした時代に生きた鈴木しづ子の作品をみてみよう。

  夏みかん酸っぱしいまさら純潔など 『指輪』

 眉をひそめる大きな一つは、正式な結婚生活をしていないことであろう。それだけでなく、軍の基地内のキャバレーのダンサーとなり、身を売り、アメリカ人の黒人と恋に落ちるなんて、ということである。
 結城昌治の書や宇多喜代子の『わたしの名句ノート』を見てゆくと、しづ子は、母を早くに亡くし、婚約者は戦死、父は若い女性と再婚する、その後職場結婚をするが一年で離婚など、次々に辛い目にあっている。
 しづ子は、一人で何とか生き抜いていかねばならなかった。
 この作品のように、夏みかんの酸っぱさは、心の奥まで染み通ってゆくが、それがなに! と、しづ子はつねに己を鼓舞しているのだ。
 鈴木しづ子の傍らに、俳句があったこと、己の矜持を保つに必要な表現道具があったことを、筆者の私は、安堵する気持ちがある。
 
  黒人と踊る手さきやさくら散る 『指輪』

 この黒人は、岐阜県各務原にある駐留軍の黒人軍曹ケリー・クラッケである。恋に落ち、各務原の借家で同棲するが、朝鮮戦争の頃で、基地から出撃してゆく度に気遣っていた。
 作品の、黒人の恋人の「踊る手さき」は、散るさくらの色と似かようピンク色である。恋に酔っていても気づいてしまうことは、俳人としての眼差しである。

  朝鮮へ書く梅雨の降り激ちけり 『指輪』

 恋人の安否を気遣うしづ子は、朝鮮へ手紙を書いていた。日本の、梅雨の後半の雨の降り方の激しさといったらない。しづ子の不安の心が見えてくる。

 鈴木しづ子(すずき・しずこ)は、大正8年(1919)-没年不明、東京神田生まれ。戦時中は岡本工作機械製作所、戦後は東芝府中工場に製図工として勤務。俳句は、職場のサークルに始まり、昭和18年、松村巨湫に師事し「樹海」に投句するようになる。昭和21年、第1句集『春雷』を刊行。若い女性俳人の句集として話題となる。職場結婚するが一年余で離婚。昭和25年より柳ヶ瀬でダンスホールのダンサーとなり、その後各務原市の進駐軍向けキャバレーに勤務。そこで出会った黒人の米兵と同棲を始めるが、彼は朝鮮戦争に出兵となり麻薬常習者となった末に母国に帰還して没した。

 そうした中で昭和27年、師・巨湫宛に送られていた未発表作品をまとめた第2句集『指環』が刊行。週刊誌でも取り上げられる。しづ子は出版記念会には姿を現したが、同年9月15日付の投句を最後に消息不明となる。『指環』は娼婦俳句と言われもしたが、性の解放の時流にあって高く評価された。