第二百四十五夜 斎藤空華の「十薬」の句

 斎藤空華は、2度召集された戦地から帰還して間もなく療養生活となった。

 私が10歳の頃に、故郷から再び上京し、戦後の貧しさの中で働き詰めだった母は、肺病となり江古田の国立中野療養所に入院した。祖母が上京して、父と私の面倒をみてくれた。結核は伝染るからと、幼い私は見舞いを止められていたが、手術をして回復期を迎えると、やっと父と病院に行った。

 一年ぶりに逢った母は私を見るや泣き出した。私だって本当は泣きたかったと思う。大好きな祖母がいても母と同じではない。私なりに一年間耐えていたからか、意地っ張りの私は泣かなかった。ややこしい性格の子だったんだなあ、とつくづく思っている。
 
 結城昌治の『俳句つれづれ草』の療養所の項には、斎藤空華の句は石田波郷の句と並んでいた。療養所の句を読むと過去が蘇る。斎藤空華の時代にはなかった治療薬ストレプトマイシンの国内生産が、母の病状に間に合ったこともある。
 令和2年の今は、コロナ菌で世界中が大変な思いをして新薬の開発を待っている。早く、そうなって欲しい。
 
 今宵は、空華(仏語)という号を持つ斎藤空華の作品をみてみよう。
 
  十薬のけふ詠はねば悔残す 『空華句集』

 「十薬」は「どくだみ」ともいい、古くから薬草として有名である。だが空華は、薬草としてではなく、真っ白い十字の形をした花に惹かれたのだと思っている。十字架でなくともよいが、「十薬」の白は全き清浄の色である。
 この花を見ながら、「けふ詠はねば=いま、俳句を詠まなければ」、己に悔いが残るだろう。空華は己を奮い立たせるかのように、亡くなるその日まで詠み続けたという。

  蓑虫や思へば無駄なことばかり

 軽やかな句もある。蓑虫が茎やら葉っぱを集めてせっせと棲家を作っている。なんだか己の姿を見ているようだ。2度の戦地への召集で、肺病を患って戻ってきた。ずっと療養生活をして寝ていて、毎日していることは、せっせと俳句を詠んでいることだけだ。きっと傍から見れば、蓑虫と同じで「無駄なことばかり」している奴だと思うかもしれない。
 でもそれは違う。俳句を詠み続けることが即ち生き続けることだから、と空華は信じている。

  転生を信ずるなれば鹿などよし

 転生とは輪廻のことで、生まれ変わること。空華は、もし来世があると信ずるならば「鹿」などに生まれ変わってみたいと考えた。軽やかに山野を駆けまわっている鹿、まん丸な純真な眸を持っている鹿だ。第二次世界大戦が終わって、帰還してから間もなく寝たきりの生活になった空華であった。

 斎藤空華(さいとう・くうげ)は、大正7年(1918)-昭和25年(1950)、神奈川県横浜市生まれ。昭和11年、横浜商業学校卒業後、日本勧業銀行員。渡辺水巴に師事、「曲水」同人。太平洋戦争で2度応召され、帰還後は結核のため療養生活を送る。昭和24年、第1回水巴賞受賞。肺結核で闘病生活を送り31歳で没した。昭和25年、没後に『空華句集』が句友たちにより刊行された。死を覚悟しながら必死に詠い続けた作品は、石田波郷に「生に証しの歌」と称えられた。