第二百四十六夜 相生垣瓜人の「枯れ」の句

 相生垣瓜人の俳意を理解できるようになるには、も少し年月が必要な気がしているが、自然を詠みながら、自然を擬人化するのではなく、自然にここまでと思うほどに寄り添い、一途に客観的に凝視する。〈死に切らぬうちより蟻に運ばれる〉〈蜈蚣(むかで)死す数多の足も次いで死す〉などの作品が、死の直前の姿を捉えたと考えると怖ろしいが、人間もいずれは死ぬ。

 今宵は、瓜人の作品から俳意にある真実を見たいと思っている。

  草々の呼びかはしつつ枯れてゆく 『微茫集』

 野や道端の草たちは、大自然の中で一生を過ごしている。太陽や月や星や雲があり、青空の日も雨の日も雪の日も風の日もある。そして仲間の草たちもいる。中七の「呼び交はしつつ」は、季節の移ろいの中で、草たちは、ひとりぼっちではないことを知っていたということであろう。
 「秋だね」「太陽が遠くなったよ」「風が冷たいね」「枯れると軽くなるんだって」「では枯れてみよう」「春がきたら、新しい葉がでてくるよ」などと、互いに情報交換をしているかもしれない。

  初鴉わが散策を待ちゐたり 『負喧』

 「初鴉」は新年の季題。初句会など、冬の小石川後楽園に行くと「初烏」や「寒烏」に出合う。広い公園内では歩いたり立ち止まったりしながら一人で俳句を作る。鴉は利口だ。掲句の鴉は、人間の動きをすでに遠くから読み取っている。
 お昼になりお弁当を拡げると、〈寒烏吾を敵視す又無視す〉を繰り返していた鴉が飛んできて、サンドイッチやら卵焼きやら唐揚げを攫ってゆく。帽子を突かれた人もいる。

  クリスマス佛は薄目し給へり 『負喧』

 12月になると、西欧から入ったクリスマスの行事が始まる。私は、高校大学とプロテスタント系の学校だったので、毎日、チャペルで30分の祈りの時間があった。クリスマスの4週間前から、テーブルの上の燭台はローソクが週ごとに一本ずつ増えてゆく。
 クリスマス大好きな女の子となった私は、クリスマス大好きな子どもたちを育てた。冬休みの初日にはクリスマスプレゼントがあり、子どもたちの喜びようといったらない。やがてお正月となるが、親も子も使い分けている。
 そんな様子を、仏壇の仏さまはちゃんとご覧になっている。「薄目し給へり」は仏さまの鷹揚さであろうか。

  恐るべき八十粒や年の豆 『負喧』

 「年の豆」は、冬の季題であるが、明日からは春である。〈老人の打つに忍びぬ老鬼かな〉のように、豆まきは鬼を退治するが、掲句の80粒もの豆を年の数だけ食べる老人が、鬼の中の「老鬼」を打つのはどうにもやりきれない。80粒の豆を目の前に考え込んでいるのは、作者の「老瓜人」である。
 第3句集名の『負喧』は、〈老身の解け終わるべき負喧かな〉の句からである。白楽天の詩の中の言葉で、「喧」は、日差しの暖かさ。それを背に負っている。日向ぼこのような意味であるという。「日向ぼこ」も冬の季題、だが春を感じさせる日ざしである。

 相生垣瓜人(あいおいがき・かじん)は、明治31年(1898)- 昭和60年(1985)、兵庫県高砂市の生まれ。大正9年、東京美術学校製版科を卒業。昭和3年より「ホトトギス」に、昭和5年より水原秋桜子の「馬酔木」、阿波野青畝の「かつらぎ」に投句。昭和8年、秋桜子の「ホトトギス」離反に伴い「馬酔木」に所属、同年「馬酔木」同人。

 戦後の昭和22年、「あやめ」参加。昭和25年、「あやめ」が「海坂」(うなさか)に改題、同誌で百合山羽公と共選。昭和51年、第2句集『明治草』他で第10回蛇笏賞を受賞。第1句集『微茫集』、第3句集『負喧』がある。その飄々とした句境から「瓜人仙境」と呼ばれた。昭和60年、風邪から心筋梗塞を併発し、意識を失ったまま永眠。享年86。