第二百四十七夜 楠本憲吉の「ゼラニウム」の句

 「巴里祭」とは、1789年7月14日のバスティーユ襲撃、翌1790年の建国式典(建国記念日)など、フランス革命記念日にあたる7月14日のフランス国民の祝祭日を、日本では「パリ祭」と呼ぶようになった。楠本憲吉の詠んだ〈汝が胸の谷間の汗や巴里祭〉は、日本が朝鮮戦争の特需景気で湧いていた頃の銀座のキャバレーでの作であるが、なぜか、7月14日には「今日は巴里祭」と思い、憲吉の句が浮かんでくる。

 今宵は、自在な句境を見せ、広く活躍した楠本憲吉俳句をみてゆこう。

  ゼラニウム母の遺愛の僕に炎ゆ

 大阪の「灘萬」、現在は「なだ万」と呼ぶ老舗の料亭の長男として生まれた憲吉は、母の愛を一心に受けて育った。「母の遺愛の僕」に表れているように、母がこの世に遺した大切な宝物のような息子の憲吉、即ち「僕」である。
 夏に咲くゼラニウムは、真赤な花の一塊が終わったと思うと次の一塊という風に、花期が長い。母の愛がずっと「僕」に向かって炎えているようであった。
 憲吉が学徒兵として出陣中の3年間、母は毎朝裸足で、裏山の神社に武運長久を願ってお参りしたという。その母が亡くなるのは、憲吉が肺病で入院中の真夜中であった。その夜、母が病室の片隅に現れたという。母の愛はこんなにも強いのかと思った。
 
  病玻璃の雀色時蛾のノック
 (びょうはりのすずめいろどきがののっく)

 肺病で入院中の作。「雀色時(すずめいろどき)」の語は、憲吉が作品に詠みたいとノートに書き留めていたものだという。この雀色時は夕方のことで、病室に灯がつくと蛾がやってきて窓ガラスを叩く。
 「雀色時蛾のノック」は洒落た言いまわしと調べの見事さがある。

  死は何色まさか琅玕まして晩夏光

 「琅玕」は、憲吉の好きな字で、俳句同人誌名を「琅玕」とし、出版社名を「琅玕洞」としたこともある。現在は琅玕の「玕」の文字もパソコンで使えるが、少し前までは特殊文字として出てこなかった。
 仕事のチャンネルを幾つも持ち、すばやく切り替えながらの日々は、いつか息が切れてしまうのではないかと常に不安があったと思う。
 死はどのような色をして訪れるのだろう。まさか、琅玕の暗緑色であろうか、ましてや好みの色の、夏の夕方の「雀色時」であろうか。

  さざなみは神の微笑か水温む

 なんだかいいな。こうした作品を見ていると、高浜虚子の自然を見る目と心と、その虚子に反対するとしている現代俳句の俳人の自然を見る目と心の、どこが違うのだろうと思う。〈ねこじゃらし風の訓話にこうべ垂れ〉も、大好きな作品だ。

 『自選自解・楠本憲吉句集』は、父の本棚から見つけたもの。
 もう一つ、蝸牛社では『子ども俳句歳時記』というかなり大掛かりな一書を制作したが、炎天寺住職の吉野孟彦が長年続けてきた事業「一茶まつり小中学生俳句大会」は、小中学生に俳句の種を蒔く運動であった。この大会の選者であったのが、楠本憲吉であった。

 楠本憲吉(くすもと・けんきち)は、大正11年(1921) – 昭和63年(1988)、大阪府生まれ。俳人、随筆家。実家は料亭・なだ万。灘中学校 (旧制)を経て(同級に遠藤周作)、慶應義塾大学法学部卒業、さらに学士入学で仏文科卒業。在学中、昭和20年より句作を始め、大島民郎、清崎敏郎らと「慶大俳句」を創刊。日野草城に師事。昭和25年、実家「なだ万」入社。昭和27年、「青玄」同人。「慶大俳句」OBグループと「琅玕」を創刊。昭和28年、出版社「琅玕洞」を始める。昭和36年、一茶まつり小中学生俳句選者となる。昭和44年、俳誌「野の会」を創刊主宰。一般向けの随筆も多く、女性論、家族論、手紙、食事、酒など話題が豊富で洒脱な語り口ゆえ、テレビにもしばしば出演した。第1句集『隠花植物』、第2句集『孤客』、『楠本憲吉集』、『自選自解・楠本憲吉句集』など。