第二百四十八夜 青柳志解樹の「夾竹桃」の句

 青柳志解樹氏は、「自然(しぜん)即自然(じねん)」を創作理念として作句しているという。「自然(じねん)」とは、仏教の言葉であり、万物は因果によって生じたのではなく、現在、あるがままに存在しているものだとする考えである。
 私は、高浜虚子の小説『落葉降る下にて』を思い出した。娘の「六(ろく)」が早逝した後に書いた小説である。
 そこには、「諸法実相といふのはここの事だ、唯ありの儘をありの儘として考へるより外は無いと思った。」という箇所があり、虚子の人生観、死生観である「あるが儘(まま)」の思想は、この小説の中で明確な表明をしたと言われている。

 戦後の現代俳句は、私は、虚子俳句の否定から始まっているように感じていた。
 だが、「千夜千句」を書きながら、様々のジャンルの作品に思い切って飛び込んでみた。すると、どの俳人の作品もとても魅力的なのである。毎日、今日も素敵な俳句に逢えたと考えることは嬉しい。
 
 今宵は、植物への造詣の深い青柳志解樹氏の作品をみてみよう。

  ヒロシマへつづく夾竹桃の道 『楢山』

 青柳志解樹氏は、この日、広島市にある原爆資料館へ行こうとしていたのかもしれない。そこは、第二次世界大戦を終わらせるために世界で初めて原爆が落とされた地である。街道は、インド原産の夾竹桃が、しかも赤い夾竹桃がつづく並木道だ。
 私が3年間住んでいた長崎の駅前の大通りにも、夾竹桃の花が、暑い夏から初秋にかけて長いこと咲きつづけている。赤と白があるが、赤がたくさん植えられていた。
 俳句にするとき、被爆地ヒロシマであることが伝わるように、「ヒロシマ」と片仮名にしたのだろう。「ヒロシマへつづく」としたことで、今も尚、人間の怒りが炎え立っている作品となった。

  冬薔薇に開かぬ力ありしなり 『松は松』

 仕事としてバラ栽培をしていた時期もあったという青柳志解樹氏である。夏の薔薇とは違って、冬薔薇は咲き始めも散り際もゆっくりしている。「冬薔薇の開かぬ力」があることを、この作品で初めて知ったが、植物に詳しい氏は当然、知っていたのだ。
 2年前の12月、大腿骨骨折で手術をした後のリハビリの歩行練習で、病院の庭に咲いている冬薔薇を毎日のように眺め、「一週間後の退院まで、どうぞ散らないでね。」と、祈るように薔薇に声をかけた。
 願い通りに咲きつづけてくれたが、冬薔薇の、散り方に日数がかかったように、開く際にも、きっと「開かぬ力」というものがあるのだろう。

  ありありと別の世があり落椿 『松は松』

 「別の世」というのは、椿が木の上で咲いている世と椿が地上に落ちてからの世という、二つの別の世であろう。私は、樹上の椿を見にゆくことは滅多にない。そろそろ落椿が見れるかしらと、日数をかぞえて待っている。上から何時落ちようかと考えている椿も風情はあるが、落椿が夜空を見上げておしゃべりをしていると想像するだけで楽しい。
 「別の世」と詠んだ青柳志解樹氏に、私は脱帽した。

 青柳志解樹(あおやぎ・しげき)は、昭和4年(1929)は、長野県生まれ。旧制東京農業大学専門部修了。俳句は、昭和28年、加藤楸邨の「寒雷」に投句。また同郷の相馬遷子の影響を受ける。昭和32年、「鹿火屋」に入会、原コウ子に師事。昭和54年、「山暦」を創刊・主宰。平生4年、句集『松は松』で第32回俳人協会賞を受賞。
 「自然即自然」を創作理念として作句。句集に『耕牛』『杉山』『山暦』『楢山』『山霊樹魂』『松は松』『麗江』『花顔』『四望』『里山』など。「植物文化の会」主宰。植物への造詣が深く、一時、バラ栽培に従事していた。『季語探耕・花』『百花逍遥』『木の花 草の花』など俳句と植物をテーマにした著作も多数。