第二百四十九夜 高木晴子の「行く春」の句

 高木晴子は、高浜虚子の8人の子の5女である。姉の星野立子が病に倒れてから「玉藻」の選者であった晴子は、「玉藻」の企画「虚子先生曽遊地めぐり」でヨーロッパへ3回の吟行の旅をした。昭和53年、3回目はロンドンで、キューガーデンにある日本庭園に父虚子の句碑を建立する謀を秘めて出かけた。
 〈頬凍てし為の涙と人はみる〉の句は、その日、キューガーデン園長との話し合いで、翌昭和54年の5月に建立が決まったことの嬉し涙であったという。

 今宵は、キューガーデンに虚子句碑を建立した高木晴子の作品をみてみよう。

  今更に思ひ深しや春は行く 『続晴居』『現代女流俳句全集』

 昭和54年5月10日は句碑建立の日。俳句は〈雀等も人を恐れぬ国の春〉。この作品は虚子『五百五十句』にはなく、『句日記』『渡仏日記』にある。
 キューガーデンは、ロンドンのキューにある王立植物園で、植民地から熱帯植物を蒐集し研究する植物園として始まリ、キュー植物園とも呼ばれる。

 虚子の句の「人を恐れぬ」とは、イギリスが世界中に植民地をもつ国であるということで、国の豊かさは、戦争をして勝ち取ったということである。キューガーデンの雀たちも又このイギリス本土に住む人たちと同じように恩恵の中で、うららかな国の春を楽しんでいるようであった、という句意であろう。
 キューガーデン側と晴子は、じつにイギリスに相応しい作品を句碑に選んだ。
 
 句碑は、この句を認めた虚子の文字がないので、手分けして虚子の字を探して集めて一句にまとめ句碑に刻んだ。彫り上がった句碑をロンドンに送るお別れ会を、千葉の神野寺で催した。句碑にはボウナス教授による英語訳が付けられた。この句碑は、虚子が渡欧した際の郵船元社長の声のもとに迅速に届けられた。

 5月10日、キューガーデン日本庭園での除幕式は、日本人とイギリス人と合わせて200人もの中で盛大に行われた。虚子が渡欧した昭和11年から43年後のことである。
 渡欧旅行で、日本独特の文学である俳句を海外に広めたいという望みを持っていた虚子は、フランスでは句会で、ドイツとイギリスでは俳句に関する講演をしている。
 キューガーデンの句碑建立は、大きな一歩となった。
 
 高木晴子の「今更に思ひふかしや」は、こうした思いの一つ一つが積み重なって叶えられ、成し遂げた句碑建立への深い心持ちである。

 もう一句、紹介しよう。

  初蝶は影をだいじにして舞へり 『晴居』『秀句三五〇選 影』

 移転した茨城県南の取手は、歩いて5分で利根川河川敷に行けた。私はよく、犬のオペラを連れて散策した。
 初蝶をじっくり見たのは初めてかもしれない。芝の土手に座ると初蝶がやってくる。草から草ヘ低く飛んでゆく。まだ上手に飛べないのだ。初蝶のおぼつかない飛び方が、低く飛び、地に影を作っている。
 初蝶は、影を縁(よすが)として飛んでいるのではないかと感じた。それが「だいじにして」ということではないだろうか。

 高木晴子(たかぎ・はるこ)は、大正4年(1915)-平成12年(2000)、神奈川県鎌倉生まれ。高浜虚子の5女で高浜年尾、星野立子らの妹。フェリス女学院卒業。幼い頃から父虚子に俳句を教わった。昭和9年、日本銀行勤務の高木良一(餅花)と結婚。戦中は小諸に疎開。虚子が小諸に疎開したのも、姉の星野立子や妹の上野章子一家もその縁であった。昭和22年、〈みちのくの帰雁に夜風悲しとも〉他で『ホトトギス』巻頭。昭和45年、姉の星野立子の病のため『玉藻』雑詠選を担当。昭和54年、英国のキューガーデンに〈雀等も人を怖れぬ国の春〉の虚子句碑を建立。昭和59年、『晴居(はるきょ)』を創刊主宰。句集に『晴子句集』『晴居』『続晴居』、著書に『遙かなる父、虚子』など。