第二百五十夜 高浜虚子の「蜘蛛」の句

 好きな虚子の作品を問われると、優に100句は超えるから一つを選ぶことは難しい。
 夏になると、木蔭や藪や家の軒端やら、人間も蜘蛛の囲にかかってしまいそうである。生物はみな何かを食べて生き延びている。人間だって豚肉やら牛肉やら鶏肉も魚介類も好物だし、蜘蛛が囲に飛び込んでくる獲物を待ち、食べているからといって侮蔑してはいけない。
 
 夏になると必ず思うのが次の作品だ。今宵はまず、蜘蛛を考えてみよう。

  蜘蛛に生れ網をかけねばならぬかな 「七百五十句」

 これは、昭和31年、虚子82歳の作品。
 「ホトトギス」の夏の稽古会は、昭和29年から昭和33年まで5回続けて千葉県鹿野山神野寺で行われており、その句会記録は、神野寺住職でありホトトギス同人の山口笙堂によって『俳録 歯塚』として纏められている。
 昭和31年の稽古会は、7月15日から19日までの5日間。句会は、稽古会4回、土筆会2回、大崎会と地元句会ともの芽会は各1回ずつ行われた。
 「句日記」には、稽古会第4回の作品が12句並んでいて、掲句も入っている。「七百五十句」に収められたのは次の3句である。
 
  蜘蛛に生れ網をかけねばならぬかな
  浴衣著てわれも佛と山寺に
  浴衣著て浴衣の句でも作らばや

 次の句は、昭和27年1月4日に亡くなった神野寺住職川名句一歩(かわな・くいっぽ)僧正の追悼句会が同年7月6日に行われた折に出句されたものである。

  蜘蛛の囲の人を捕らんとかゝりをり  

 その追悼句会で出合った蜘蛛のことが、「ホトトギス」(昭27年7月号)にあった。
 「…その蜘蛛の網が八畳敷、十畳敷といふやうな大きなものとなつて、人間がその中に引かゝつても足掻きがとれず、遂に蜘蛛の餌食となるやうな事になるのかもしれぬと思はれた。」とあり、さらに、庭の散歩でぶつかる蜘蛛の囲がどうにも不愉快で、ステッキで片っ端から壊している、むきになった虚子自身の姿も書いてある。
 虚子が、身近に見るのは軒端にかかる大きな蜘蛛の囲に獲物を待つ大蜘蛛や、庭木にかかる小さな蜘蛛の囲の蜘蛛である。
 だが、昭和27年の句一歩の追悼句会で見かけた大きな蜘蛛の囲がきっかけとなって、心に描いたのが巨大化された蜘蛛である。この巨大化した蜘蛛は人間を捕らえようとしていた。

 次に昭和31年、こうしたことが背後にあって、神野寺の夏の稽古会で眼前の蜘蛛を見たとき、作品の中で虚子自身を蜘蛛に変身させてしまった。
 蜘蛛に変身した虚子が蜘蛛の囲の端に悠然と構えて居る姿は、さながら此の世を睥睨しながら次の獲物を待つようにも見える。
 
 本井英編著の蝸牛俳句文庫『高浜虚子』によれば、虚子の立子への手紙には「杞陽来。余を蜘蛛のやうだといふ。起り来ることを待つてをるといふ意味。」と書いてあったとある。
 獲物を待つ大蜘蛛の姿は、京極杞陽(きょうごく・きよう)が奇しくも言い当てたように、「起り来ることを待つてをる」虚子の姿そのものであった。

 虚子の人生にはいくつかの分岐点があった。
 「ホトトギス」が継承されたとき、大正2年、小説家志望へ向いていた虚子が俳壇復帰を決意するとき、昭和3年、「花鳥諷詠」と「客観写生」を唱えたときなど、確かに虚子は、黙々として作り上げてゆく蜘蛛の囲の過程と似ているも言えよう。
 一つ一つが、蜘蛛に変身した虚子の「網をかけねばならぬかな」という表現になったのであろう。
 
 蜘蛛の囲ができた後には、獲物がかかると猛然と勝負に出、必ず勝利してきたこともまた「虚子」であると思う。虚子は、新しいことを始めるに当たって、つねに、期が充分に熟すのを待って成し遂げた人であった。
 虚子は、まめな性格である。筆まめさによって膨大な著作を著し、すべてが遺されていることで、今も書を繙けば、必ず虚子の答えを見出すことができると思っている。