第二百五十二夜 高浜虚子の「春の山」の句

 虚子の第5句集「七百五十句」は、虚子の没後に長男高濱年尾と次女星野立子によって句を選ばれている。昭和26年虚子78歳から昭和34年3月30日まで、虚子が最後の「鎌倉句謡会」を終えて、その日の句を「句日記」に書き留めた作品までのものである。
 句集「七百五十句」は、深見けん二先生を囲んでの「花鳥来」の輪講会に参加していたこともあるが、最近の私は、当時の虚子の年齢に近づきつつあるからか、もっと触れてみたくなっている。
 当時の文章に、どれだけ今の私が加味されるか、楽しんでいこうと思う。

 今宵から、数回に渡って「七百五十句」の作品を見てゆこう。
 
  春の山屍をうめて空しかり
  
 3月30日は、最後の句を作った日であった。「七百五十句」には6句、鎌倉句謡会の記録には7句、「句日記」には10句掲載。虚子の最後の句は、4月5日の大谷句仏の十七回忌に寄せるため30日の句会後に作ったと思われる「独り句の」で、句帳の最後に少し離れて書かれていた。掲句は「七百五十句」の5句目である。

  幹にちよと花簪のやうな花 
  椿大樹我に面して花の数 
  鎌倉の草庵春の嵐かな 
  英雄を弔ふ詩幅桜活け 
  春の山屍をうめて空しかり 
    句仏十七回忌
  独り句の推敲をして遅き日を

 鎌倉句謡会が催されたのは、虚子が4月1日に倒れる2日前の3月30日で、会場は、私も行ったことのある婦人子供会館の2階の部屋であった。暖かい春の日の差しこんでいる縁側からは桜や桃の丁度見頃の庭が見え、窓側にはこんもり茂る源氏山が見えていた。
 源氏山は、強い春風に木々は騒立っているが、芽吹きだした枝々も賑やかで、桜も椿も煙り立つように咲き、まさに駘蕩としていた。
 鎌倉は、源氏一族が隆盛を誇り且つ滅亡した場所である。かつて戦で屍を累々と埋めた源氏山は、栄枯盛衰を悉くのみ込んでしまっていて、人間界の出来事など跡形も止めていない。
 虚子の眼前には今、鎌倉幕府の滅亡後も常と変わらず四時移りゆく自然の中で、生命の躍動に輝く美しい春山が見えている。
 掲句はこのような情景の中で出来た句である。
 
 「ありのまま」という生死観をもつ虚子は、「人間の消滅も、花の開落と同じく宇宙の現象としてこれを眺め」、埋められた屍を哀れむ訳でもなく、有為転変の春山を「空しかり=空しいことよ」と、無常の心で眺めたのだ。
 遺された掲句に誰もが感動したのは、虚子が最後の日に詠んだ句が、自然に大きく包み込まれるむような花鳥諷詠の一句であったことであろう。

 今宵は、もう一つ、平成21年4月半ば、横浜の神奈川近代文学館で催された、虚子没後五〇年記念の企画「子規から虚子へ」展で見た、今まで知り得なかったことに触れておこう。
 
 会場には、書物やホトトギスの俳誌で知っていたものとは違う世界が広がっていた。手紙や短冊の墨痕や書籍の装幀や下村為山の描いた子規庵句会の絵などを眺めていると、ふっと百年前にタイムスリップするようであった。
 感動したのは、虚子に会ったことなど勿論ない孫弟子の私が、休憩コーナーに流れていた、「高浜虚子俳句朗読」のレコードに吹き込まれた虚子の、ぼそぼそした声を聞くことができたことであり、写真では感じることのできなかった立体的なお顔のデスマスクに会えたことであった。
 虚子が亡くなったのは昭和34年4月8日。「ホトトギス」虚子追悼号の上村占魚の文章によれば、デスマスクはの準備は9日の本通夜の読経が終えてから、かつて虚子の胸像を作ったことのある彫刻家石井鶴三と弟子によって石膏取りがなされた。
 石井鶴三は「しづかな、きれいなお顔だ」と言い、合掌の後石膏取りを始めた。4日後、出来上がったデスマスクを受け取りに来た上村占魚に石井鶴三はさらにこう言ったという。
 「高浜さんのお顔は、お鼻が大きくて彫が深いので、まことに彫刻的です。」
 虚子のデスマスクを間近にした私が実感したのは、50年前の満開の桜の時期に、このような穏やかなお顔で亡くなられたのだ、ということであった。