第二百五十三夜 高浜虚子の「秋の風」

 虚子の俳句人生には折々に絵巻物のような出来事があったが、長生きした人の晩年というのは、そこに関わった人たちが本人より先に亡くなってしまうことでもある。
 第5句集「七百五十句」では、虚子はさまざまに過去に思いを馳せており、その一つ一つの物語への終章(エピローグ)のような作品が贈答句として多く見られるのも特徴であろう。
 
 今宵は、その絵巻物のごとき作品を拡げてみることにする。

  一筋の大きな道や秋の風  昭和28年

 宝生流能役者野口兼資(のぐち・かねつぐ)は10月16日に亡くなった。
 虚子は野口兼資の訃報に接して、かつて観た兼資の「江口」「羽衣」などの見事な舞台が眼前に甦るようであった。「一筋の大きな道」とは、無論、師から承け伝える師承であり伝統の芸術である「能楽」のことである。先師から型を受継ぎ、修錬に修錬を重ねて打成され、後進への育成も終えて亡くなった兼資の芸を思い、能楽を思ったとき、「一筋の大きな道」が一本すうっと貫いて見えたのだ。
 能楽と同じように俳句も師承であると考える虚子は、昭和28年80歳となった自らの来し方を顧みると、子規から学んできたことを、今、後世の人に伝えるべく、若き俳人を育てている。そこにはやはり「一筋の大きな道」が見えていたからではないだろうか。

  椿子も萩も芒も焼き捨てよ  昭和29年

 俳号を付けたお礼として、人形問屋「吉徳」の十代目・山田徳兵衛から一体の女人形をもらった虚子は、その人形に「椿子」と名づけて側に置いていた。『六百五十句』昭和23年2月1日の作品がその折の〈椿子と名付けて側に侍らしめ〉である。そのお人形は棚に大事に飾っていたが、ある日、虚子庵を訪れたホトトギス門人の安積素顔の娘の叡子さんに差し上げた。叡子さんは、目の不自由な父素顔の杖となって句会に参加していた。
 掲句は叡子さんの結婚が決まったときの作。この一部始終は、「虹」と同じく、写生文「椿子物語」となっている。
 結婚し千原叡子となった後も、叡子さんは「椿子」を捨てることはしないで大事に持ち続けていたが、現在、この椿子人形は芦屋の虚子文学記念館に納められている。

  我のみの菊日和とは夢思はじ  昭和29年

 昭和29年11月3日の文化の日、まさに菊日和の日に虚子は、俳人として初めての文化勲章を、明治・大正・昭和の三代にわたる俳句上の功績に対して受けた。
 掲句は、かつて「私らは、芭蕉以上、蕪村以上になるつもりで俳句を作っている。それくらいな抱負がなくて、明治大正の文芸家ということができようか。」と、大正5年の雑誌「能楽」に書いている。その虚子が、「一人の力とはゆめ思はじ」と詠んだのは、子規後の五十年間の俳句界をリードし続けてきたという大いなる自負であろう。

  子規と短き日その後永き日も  昭和30年

 「ホトトギス」七百号を回顧しての句。子規に初めて指導を仰ぐ手紙を出したのが明治24年。子規が亡くなったのが明治35年、ほぼ10年の短くも濃密な子規との年月である。
 その後の虚子の俳句人生は50年以上で、春の季題「永き日」は、その後の月日の長さも掛けた虚子の感懐であろう。

  牡丹の一辯落ちぬ俳諧史  昭和31年

 父は能役者の松本長(ながし)。たかしは病弱のため能を断念したが、四S以降のホトトギス作家として、川端茅舎とともに活躍した。茅舎がたかしを「生来の芸術上の貴公子」と評したように、作風は端正で鋭敏な感受性があり、気品が高い。
 能の世界で培った美意識の全てを、俳句という型の言葉に込めることで、たかしは俳句の自在の舞いを得たのだ。
 「牡丹」は花王とも称される。その牡丹の花の一辯が、俳句界の貴公子に相応しい「牡丹」の季題を得て、花王の風情でゆったりと落ちた。

  我生の美しき虹皆消えぬ  昭和32年

 千葉県鹿野山神野寺の夏行句会の折の作品。この夏稽古の始まる半月ほど前のこと、虚子の許へ、伊藤柏翠から「虹屋」廃業の報せが届いていた。
 虚子が、小説「虹」を書いたのが昭和22年、主人公森田愛子が亡くなったのは昭和22年4月1日である。
 虚子は、眼前の虹が消えるのと同じように、生涯に出合った美しい虹も、輝いていた「虹物語」も、色褪せて皆消えるのを感じた。再び虹が立つ時に「虹物語」は蘇るだろう。