第二百五十四夜 高浜虚子の「風花」の句

 東都書房から、昭和30年刊行の『虚子俳話』と昭和35年4月8日刊行の『虚子俳話』(続)があり、続篇には、晩年の紀行・随筆が転載されてある。
 一つは、随筆「私─(家)─」中の、昭和34年の1月、改築を終えた書斎の机に向かったときの虚子の次のような日々の仕事ぶりであった。

 「朝日新聞の俳句を選む。「虚子俳話」を書く。書信の返事を書く。句稿の選をする。敏郎、けん二、桃邑、遊子、立子と研究座談会をする。(略)」
 研究座談会のメンバーは、清崎敏郎、深見けん二、湯浅桃邑、藤松遊子、星野立子である。
 この一文からも分かるように、虚子の「七百五十句」の時代は、朝日新聞で「虚子俳話」を連載し、「玉藻」では「立子へ」を連載し、「研究座談会」では若き新人達に精力的な指導をし、「花鳥諷詠」を次代へ託そうとする熱い思いの沸々とした時代でもあった。
 
 今宵は、ホトトギスの特色の、小諸に始まった「稽古会」を紹介しよう。
 
 昭和20年11月に復員した上野泰(上野章子の夫)は、小諸でしばらく静養している間に俳句に興味をもつようになった。
 『小諸雑記』には、「新たに俳句に志した泰などの熱心に刺激されて、寒の間の土曜日曜に俳句の稽古会を催すことを思ひ立つた」とあり、第1回目が昭和20年12月26日で、翌21年2月17日まで稽古会は37回行われた。虚子、泰、立子が中心となり、来合わせた人が随時参加した。

 小諸へ疎開した虚子の許へは子どもたちは勿論のこと、東京からも関西からも北陸からも多くの俳人が訪れては句会をした。人日は五節句の一つで七草粥の日、遠くから訪れた客をどのようにしてもてなそうか。この日訪れたのは岡安迷子はじめ土筆会の面々で、迷子は虚子の小諸での物資補給や一時ホトトギスの仮事務所をするなど世話役をした。〈何をもて人日の客もてなさん〉の句があるように、彼らへの何よりのもてなしが句会であったという。

 次の作品は、昭和21年の稽古会での句である。

  風花はすべてのものを図案化す  虚子 
  春着きて孔雀の如きお辞儀かな  泰
  下萌えぬ人間それに従ひぬ  立子

 一句目、「風花」は、晴れているのに、風にのって雪片がちらちら舞うように飛来してくる小雪。風花が降ることで図案化されるのは、風花越しの光景だろう。木々も家も、どこか一味違う、メルヘンチックな景になっている。
 二句目、「春着」正月の晴着のこと。袂の長い着物の少女が、ちょこんとお辞儀した姿は、美しい羽を拡げた孔雀のようであった。「孔雀」といい留めた、泰の発想の豊かさに虚子も驚いた。
 三句目、虚子は、立子の主宰する「玉藻」に創刊号からずっと俳話を連載した。
 俳句の本質、味わい方、作り方について自在に語ったものであるが、客観写生、花鳥諷詠の理念がやさしく説かれている。
 「いずれも宇宙の現れの一つ」として、この「下萌えぬ」の句を挙げ、天地の運行に従って、百草は下萌をし、生い立ち、花をつけ、実を結び、枯れる。人もまた天地の運行に従って、生まれ、生長し、老い、死する。」、「私は人の生活にも多少心をとめてきたが、春夏秋冬の移り変わり、花の開落にも心をとめてきた。そうして人間の生滅も、花の開落と同じく宇宙の現象としてこれを眺めつつある。」と書いている。
 立子は、荒々しいまでに大自然の息吹を感じた小諸の地でこの作品を詠んだ。

 小諸ではその後、22年と23年に夏の稽古会が行われた。23年は虚子は鎌倉に戻っていたのだが、稽古会は小諸で行われ、新人会の深見けん二先生も参加し、〈青林檎旅情慰むべくもなく〉と詠んでいる。
 終戦後も2年以上も滞在した去り難き小諸であった。区切られた年月、厳しい自然の小諸という閉ざされた場所での俳句生活は、まさに、「日常存問が即ち俳句である」という虚子の言葉が実感される日々であり、一方では虚子は小諸時代を楽しんでいたのだと思った。

 稽古会は昭和26年からは山中湖の虚子山荘、昭和29年から5年間は鹿野山神野寺でも夏行稽古会が行われた。若い俳人を指導する場であるが、虚子自身も若いエネルギーを糧として名句が生まれ、その出発点は小諸であった。