第二百五十五夜 星野立子の「炎帝」の句

 『実生』は、『立子句集』『続立子句集』『笹目』に続く第4句集である。まず、父高浜虚子の序文に驚いた。それは、立子が俳誌「玉藻」の主宰となって以降、虚子が「玉藻」主宰者としての立子の成長を祈るような思いで、毎月欠かすことなく書き続けた「立子へ」から5つ選んだ文章を序文としていたことである。1つ紹介する。
 
    平凡の価値
 あなたは平凡の価値を解してゐるやうである。之は大したことである。
                     (玉藻318号-立子へ-)
 
 今宵は、虚子の言葉を感じながら『実生』の作品をみてゆこう。

  ホッケーの球の音叫び声炎帝 昭和23年

 ホッケーは、チームで行われるスポーツ競技。2つのチームに分かれて、先の曲がった棒(スティック)でボールまたはパックを誘導し、それを相手チームが守備しているゴールへ入れるのが目的。 一般的にホッケーと言えばフィールドホッケーであるが、アイスホッケーの方が、スケート靴を履いて動くスピードが人気があるのか、「アイスホッケー」が冬の季題となっている。
 掲句の季題は「炎帝」。この作品は、多くの内容を詰め込んでいるために、最初は調べがよくない気がした。だが、ホッケーというスポーツは、走り回り、スティックの蹴る球の音、その度に、チームの叫び声、観客の叫び声が、真夏の太陽に負けじと響き渡っている。
 そう思ったとき、五七五の調べではない、怒涛のような調べであると感じた。

  滝落つる岩膚あらはなるときも 昭和25年

 「滝」は夏の季題。夏場の滝というのは大抵は水量が多い。しかし、そうでない年もあるだろうし、岩場によっては、水量によって脇に逸れて、つと岩膚が見えることもあるだろう。「滝」を見て、「岩膚」を詠んだ作品は大歳時記でも見かけない。
 立子は、瞬間に「ああ、岩膚が見えている」と見て取った。
 俳人たちは、花見の吟行であっても、その年の開花が遅れている場合もある。だが、桜の花に立ったら、眼前の桜の、そのままの状態を詠もうとするに違いない。

  或る朝玉子のやうな朝日冷え 昭和26年

 冬の朝日、地平線から出たばかりの朝日、初日の出にもこうした一瞬がある。太陽が出て、まだ太陽の周りのコロナが輝き出す直前である。その太陽の形を「玉子」と捉えた。白い玉子ではなく、割りたての黄身の部分。
 この現象は、おそらく「冷え」のなす業であろう。
 立子の瞬時に捉える目、耳、感性がこうして言葉となったとき、人ははっと気付かされる。〈下萌えて土中に楽のおこりたる〉の「土中の楽」もそうであった。

  短日のふと何を欲り指輪欲り 昭和23年

 筆者の私も、仕事に追われ、子育てに追われ、家事に追われ、疲れた日々の中で、心が痩せていくような気がすることがあった。どうしても「指輪」が欲しいわけではないけれど、自分へご褒美をあげたくなる。それが「欲(ほ)る」であろう。
 私は、立子の日々の忙しさ、責任の重さを思った。
  
 立子著『俳小屋』の中の「按摩」という一文に、次のエピソードが書かれている。
 
 虚子と新潟の句会へ共に出席した時のこと、連日の句会で立子が酷く疲れていることを見た虚子はつと手を伸ばして肩を揉もうとした。立子は、小さい頃に熱が高くて全身がだるく臥せっているとき、静かに腰から下をさすってくれたことを思い出した。
 「今は父は七十七、私は四十八……などと考えて行くうちに、私は妙に悲しくなって来るのであった。」
 「悲」は「哀」「愛」と同義であり、今も尚父に守られている子としての、どうしようもない切ない感情を「悲しく」と言ったのだろう。
 立子はまた、父虚子のことをこうも書いている。
 「父は子供等にやさしい父であった。私はまだ父に叱られたという事を知らなかった。病気をすると看病してくれるのは父であると思いこんでさえいた。」と。
 虚子に「病児」という、立子がモデルの小説がある。
 
 立子は、〈父がつけしわが名立子や月を仰ぐ〉と、30歳の父虚子が論語「三十にして立つ」から命名したものであり、〈冬ばらや父に愛され子に愛され〉のように、、俳人として大虚子である父に厳しく育てられ、子として虚子に人一倍愛されたのであった。