第二百五十六夜 高浜虚子の「手毬」の句

 昭和26年2月1日、虚子庵を訪れた下田実花一行というのは、前年の昭和25年10月に発足した「艶寿会」のメンバーであった。ホトトギスの小句会「艶寿会」の会員は、新橋の芸者仲間の小くに、小時、下田実花、武原はん、歌舞伎役者の中村吉右衛門や岩井半四郎、吉右衛門夫人の波野千代、琅玕洞の主人であり俳人である楠本憲吉、星野立子などである。その年の12月、虚子は軽い脳梗塞を起こしていた。
 病後のお見舞いかもしれないが、芸者たちの賑やかな訪問は虚子の心を和ませた。  

 今宵は、作品の鑑賞と「艶寿会」のことを紹介してみよう。
 
  羽子つこか手毬つこかともてなしぬ  「七百五十句」 昭和26年

 句の表は、無心に幼子と戯れる良寛さんの歌の世界のようであるが、虚子は、職業が芸者であるという艶な世界に身を置く人たちをどのようにもてなそうかと心を砕き、明るい色彩と楽しい動きの「羽子つこか手毬つこか」という表現で、戯れてみせた。

 俳人といっても、皆それぞれに様々な職業を持っていて句座を共にしているが、虚子が能が好きなことから、ホトトギスには謡と句会をする「句謡会」、能仲間の「七宝会」などの句会があった。
 現在の句会とは大部様子は異なっているが、当時の俳句大会や会合では、句会でも料亭を使うことがあり、そうした会に芸者を呼ぶことがあった。

 新橋の芸者たちが虚子のホトトギスで俳句を始めるようになったのは、三菱地所の赤星水竹居が大きく関わっていた。水竹居は、ホトトギス社の入っている丸ビルを管理していたことから虚子と知り合うようになり自然に俳句を作るようになっていた。そして、地所部長として丸ノ内一帯の三菱の地所を管理するという実業家としての仕事上、料亭を利用することも多かったことから、そこで芸者たちに俳句の種を植え付けたのだった。
 新橋の俳句を作る人たちを一部だが見てみよう。
 
 芸者仲間で、俳句を作る人が生まれたのは昭和初期である。
 小時(ことき)という、今日出海(こん・ひでみ)兄弟の従姉がいた。今日出海兄弟というのは、僧侶で小説家の兄今東光(こん・とうこう)と、小説家の弟今日出海(こん・ひでみ)のこと。
 実花は、山口誓子の妹の下田実花で、お酌時代から一茶のものを好んで読んで、俳句に親しみ、戦争中は廃業してホトトギス社の事務員となり、(略)その後また新橋に復活した。
 昭和10年に虚子の許で俳句を始め、〈寒紅や暗き翳あるわが運命〉などの作品がある。母方の詩の血筋を受けた兄の誓子と実花が、後に再会し、俳句や文章という同じ道を歩んだことは不思議な巡り合わせである。

 おはんは、12歳の時に大和屋芸妓学校に入っている。大阪の大和屋の初代のおはんで、その後東京に出て一時新橋から、はん弥といふ名で出ていたことがある。その後、芸者を廃め、東京の灘萬支店の専務となり、傍ら地唄舞の師匠をして居る。武原はんの作品に〈牡丹にかしづくごとく葉の静か〉がある。
 
 芸者という職業は、自ら望んでなる人は少なく、家庭の困窮など薄幸の身の上から、口減らしという形で身売りされてなる人が多かった。
 芸者の世界は、芸事は勿論のこと日本文化の全て、あらゆる躾を厳しく仕込まれ修業をするものであり、また、お座敷で見聞きする政治家や実業家や文化人たちの話は、学校で学ぶ授業よりもずっと世知に長けた人生の機微を学ぶことができた。

 実花のいた田中屋は新橋の待屋、はんが当時副支配人をしていた灘萬は赤坂の料亭だが、共に当代一流の人の会合に使われる場所である。
 
 写生文「新橋の俳句を作る人々」に出てくる女将たち、女将同士、女将に対しての虚子の気配りと互いの言葉のゆきき、などを虚子は見てをり、また立子も、虚子に対する祝いの品の、おはんたちのはんなりした競り合いを見抜いている。
 「私は耳を峙てゝ此の二人の女将の会話を聞いた。チャーチルとルーズベルトの会話よりも興味が深かった。」
 こうしたスパイスの効いた数行が、虚子の淡々とした写生文や小説に書き込まれていることに気づくが、温かさの奥のクールな虚子の眼差しは何でもお見通しなのである。
 
 赤星水竹居は、ホトトギスが丸ビルに入居後ずっと、虚子と会わない日はないというほど側近くにいて俳句を共にしていた。水竹居には、芭蕉の言動を書きとめた『去来抄』のごとく、虚子の言動を書きとめた著書『虚子俳話録』があるが、その中で水竹居は、虚子が如何に人に対して情義を尽くすかということを、「心を労する」と表していた。