第二百五十七夜 山口青邨の「銀夕立」の句

 私にとって山口青邨を身近に感じたエピソードが一つある。
 「明日開きます。見にいらっしゃいませんか。」という、佐々木邦世ご住職(現中尊寺仏教文化研究所所長)のお電話を戴いた夫と私は、真夜中に東北自動車道を飛ばした。
 昭和25年、金色堂内の藤原三代の棺を調査した際の一人であった植物学者大賀一郎が、泰衡の首桶から出た蓮の種子を5粒を持ち帰り、さらに何十年もかかって門下生が培養に成功して蘇った蓮である。 
 
 平成11年7月17日、東京を真夜中に発ち、夜明け前に、中尊寺の参道の脇の田んぼに到着した。5、6人の方々と一緒に2時間ほどかけて蓮の花がゆっくり開くのを見届けた。
 800年金色堂で眠っていた種から目覚めた「中尊寺ハス」であった。

  舞ひ出でて光堂より蓮の精  あらきみほ
  実の飛んで時空を飛んで蓮開花  々

 その後立ち寄った、佐々木邦世さんの円乗院の玄関の真正面に額装されていたのが、次の青邨の句であった。

  光堂かの森にあり銀夕立  『乾燥花』昭和30年作

 通された2階の窓は開け放たれていて、枝垂桜や唐竹林からの満目縁の風の中で朝粥をいただきながら、邦世さんは、中尊寺に縁のある青邨のお話をしてくださった。

 昭和25年の4月末からのゴールデンウィーク、中尊寺が「藤原祭り」の行事の一つ芭蕉祭の全国俳句大会を開催したとき、青邨は講師として招かれていた。この時ちょうど金色堂鞘堂の屋根の修理の最中であった。案内した円乗院の先代住職から屋根に上ってもいいですよと言われた青邨は、懐中電灯を持って鞘堂と金色堂の間の隙間へ這い上がり、金色堂の屋根に金箔をおす木瓦に直接触れたのであった。
 屋根は、金箔は剥げ漆も剥げて、布があらわれてをり、わずかに木瓦の隆起した部分の陰に金が残って底光りに光っていた。青邨はあまりの懐かしさに、思わず屋根の表を撫でたという。
    
 揚句は、昭和30年に青邨が盛岡へ帰る途中、平泉の毛越寺から中尊寺へ抜ける車中での作であり、激しく降る雨脚は「銀色の矢のようであった」と自解している。
 遠くにうち煙る森はあの金色堂のある中尊寺である。句には「金色」という言葉を潜ませてはいるが、「光堂」は、あの藤原三代の棺の祀られた金色堂の別称であることに誰もが思い至る。鞘堂は静かな佇まいであるが、鞘堂に納められた金色堂は黄金華やかな藤原時代とその滅亡を彷彿とさせる。
 金色堂鞘堂の修理中の屋根で見たことが下敷きとなって、青邨が「金色堂」ヘ一方ならぬ思いを募らせていたことを踏まえた作品が掲句であった。

 「山口青邨君は科学者である。」と、第1句集『雑草園』の虚子の序にあるように、明治25年に盛岡市に生まれた青邨は東大採鉱学科を卒業し、東大教授となり、名誉教授の称号を受けた採鉱冶金学の学者である。 
 ホトトギスは大正8年から愛読していたが、句作を始めたのは大正11年の東大俳句会創立に参加して以降である。俳句よりも先に文章が虚子に認められていた。
 昭和初期の「四S」という呼び名は、ホトトギス講演会での講演「どこか実のある話」の中で青邨が提唱したものである。昭和5年に「夏草」を創刊主宰し、昭和9年以降からは東大ホトトギス会で学生の指導にもあたってきた。
 わが師深見けん二も東大俳句会で青邨に師事した一人である。
 
 30歳から66年間の句業は、13句集の11、178句。青邨俳句は、俳壇では捉えどころがないと言われるほど句材は豊穣であり、句風は、透徹した知性による静かさと激しさ、清廉さ、驚くほど素直なユーモア、そして変わることなき虚子への恩顧など多岐多彩である。
 虚子から客観写生を鍛えられ、四Sの秋桜子、素十、誓子、青畝、その後の草田男、たかし、茅舎等と切磋琢磨した時代が青邨にはあった。
 ひたすら真実と美を求めて観察(オブザベーション)を怠らないことは、複雑なものを単純化して一つの法則を作る科学者の方法と同じであった。