虚子が亡くなったのは昭和35年の4月8日、戒名は「虚子高吟椿寿居士」。その2日前の6日、宝生流能楽師・高橋進(俳号・すゝむ)や安倍能成が見舞ったとき、虚子の妻・いとの頼みで虚子の枕頭で謡ったのが虚子の好きだった「鞍馬天狗」である。
何日も意識のない虚子の唇が謡うかのように幽かに動いたという。
「花咲かば。告げんといひし山里の。告げんといひし山里の。使は来たり馬に鞍。鞍馬の山の雲珠桜(うずざくら)。たをり枝折をしるべにて。奥も迷はじ咲きつゞく。木蔭に並み居ていざいざ花をながめん」
この時、春雷とともに雹が降り一面に花が散り敷いた。
謡を子守歌としながら、虚子は永久の眠りに着いたのであった。
能楽界は、旧藩時代には松山の能楽は相当に盛んで、喜多流がシテ方で下掛宝生流がワキと地を兼ねていて、虚子の家は下掛宝生流であった。明治維新後には虚子の父が主となって世話役をしていた。
父の死後は、実兄の池内信嘉がその志を継ぎ、さらに、能楽の維持振興の志を抱いて明治35年に上京し、晩年の子規にも相談して「能楽」という雑誌を発行しはじめた。
能のDNAを持って生まれた虚子にとって、能という芸が俳句に与えた影響は大きい。虚子の俳論や作品を見ながら、客観写生や花鳥諷詠を考えてみよう。
今宵は、虚子と能を考えながら、次の句を見てみる。
桐一葉日当りながら落ちにけり 明治39年
大きな桐の葉は、落ちるべき時がくると、風がなくても一枚ずつ自然に枝を離れる。この桐一葉は澄んだ秋空から、葉裏も葉表も見せ、日に当たりながら舞い落ちている。何と平明な言葉であろう。読者の眼前に容易に景が浮かび上がる。
これは「写生」の力によってできた句である。
デッサンを繰り返すことで余分な線は消え、対象に迫った線となる。その大切な一本線がうまく引けるようになるまでが修練。最終の一本線が、小さな主観の消えた「客観写生」の域であろう。
俳句の一本線とは、余分な言葉は削ぎ落とされ省略され、五七五のリズムに乗った17文字のこと。このデッサンを繰り返す「写生」が、能における「型」の厳しい修練に重なる。
明治、大正時代の碧梧桐、昭和の新興俳句の俳人たちが改革しようとしたことは、近代の文芸思潮を詩人として俳句に持ち込もうとしたことであった。
だが虚子は、逆に自らを守旧派と呼び、彼らが捨てようとした特殊文学としての俳句固有の方法論を追求していった。
山本健吉は「(略)虚子は俳句という芸術ジャンルの固有の方法の体得者である。言いかえれば、虚子は特殊文芸としての俳句の方法的完成者であり、その点で古今独歩と言ってもよい」と、「高浜虚子集」(筑摩書房)の解説で言っている。
昭和3年に虚子の掲げた「花鳥諷詠」とは、四時の中の自然(=花鳥)を詠む、自然の中の人間を詠む、五七五のリズムにのせて詠むことであり、虚子は「花鳥諷詠=俳句」はシノニム、つまりイコールであると言った。
「花鳥」という言葉を付けたのはそれだけであろうか。虚子は説明もしないし言い訳もしないが、俳句という特殊文学のジャンルで深く高い域へ到達できるのは、客観写生を磨くことで到達する「花鳥諷詠」であると確信するに至ったからであった。
誰もが入れる「写生」は、修練すれば「客観写生」へ到達できる。俳句への入り口はとても広いのである。
では、写生のよくできた句は「花鳥諷詠詩」と言えるのだろうか。「花鳥諷詠」の頂上までは、達くて細い道であり、誰もが簡単に到達できる道ではないと思う。
虚子の弟子たちはこう言う。
「私たちには客観写生句を作りなさいとおっしゃいますのに、先生の御句は主観の勝っている句が多いと思いますが。」
虚子は「私はいいのです。」と答える。
深見けんニ師は、かつて私の問にこう答えてくれた。
「私は俳句に意味を込めることはしません。」
この2つの答えに「花鳥諷詠詩」である俳句のキーポイントがあり、俳句と、名人の能役者の最高位に達した芸である能舞台との共通項があると思うのである。
能役者は「型」に始まり「型」に終わると言われるほど、修練を積み重ねる。そんな名人がほんの少し「型」がずれることがある。その時、観ている人に何ともいえない感動と美が伝わるという。世阿弥の「老木(おいき)の花」とも言われる老熟の境地だ。
虚子は能を「能楽は舞い歌い遊ぶ芸術である。即ち極楽の芸術である」(『俳句への道』)と言い、俳句を「花鳥諷詠の文学であり、極楽の文学である」と言う。
長年、能の世界を身近にし、新作能を書いたほどの虚子が、「花鳥諷詠」の最高位の境地を能楽に観たのはごく自然なことであり、おそらく「花鳥諷詠」の命名は、花を愛した世阿弥への思いも掛けた名ではないかと考える。